海外文学読書録

書評と感想

マクシム・ゴーリキー『二十六人の男と一人の女 ゴーリキー傑作選』(1895,1899,1912,1913)

★★★

日本オリジナル編集の短編集。「二十六人の男と一人の女―ポエム―」、「グービン」、「チェルカッシ」、「女」の4編。

俺たちは、俺たちの偶像の強さを試してみたくてしかたがなかったのだ。俺たちの偶像が堅固であり、この戦いで勝者となるに決まっていることを、俺たちは張りつめた気持ちでたがいに論証しあった。しまいには、けしかけ方が足りなかったので、兵士あがりはさっきの言い争いを忘れるかもしれない、奴の自尊心をもっと刺激しなくてはという気になってきた。(p.23)

以下、各短編について。

「二十六人の男と一人の女―ポエム―」。26人のパン職人の男たちは半地下で奴隷みたいな労働をしていた。彼らの唯一の慰めはターニャという女で、ターニャはよく彼らのパンを買いにくる。あるとき、兵士あがりの男が現れ……。男たちにとってターニャは陽の光であり、崇拝の対象であり、偶像である。そういう意味で本作は宗教寓話と言えなくもない。男たちが敗北したのは兵士あがりの男を使って偶像を試したからだ。これはもちろん、「神を試してはならない」という聖書の逸話に基づいている。

「グービン」。「私」は居酒屋でグービンという男と出会い、彼と行動を共にする。グービンは富裕層出身で法を重んじていた。今まで意識してなかったけれど、ロシア文学って人生の敗残者に焦点を当てているのが多いような気がする。そういう人たちは得てして酒を飲んでくだを巻き、青筋を立てながら議論に興じるわけだ。語り手が指摘するように「ロシアの憂鬱な生活の反映」なのである。また、グービンは法を重んじているものの、西洋においては宗教が道徳を定めていて一筋縄ではいかない。神の前では人は同じように愚かという人生観があり、人の行動はしばしば法の枠内から飛び出す。本作はその二重性が垣間見えるところが興味深い。

「チェルカッシ」。泥棒のチェルカッシがガヴリーラという若者を仕事に誘う。夜間、ガヴリーラに舟を漕がせて目的のブツを盗んだ。ガヴリーラは田舎からの出稼ぎで金を欲しがっている。金こそが自由になる唯一の道だけど、かといって悪になりきれない。そんな2人のもどかしいやりとりが良かった。読んでるときはガヴリーラがいつチェルカッシを海の底に沈めるかハラハラしていたのである。チェルカッシはチェルカッシでガヴリーラに同情してるし、ガヴリーラはガヴリーラで罪悪感から逃れられない。近代的自我とはこういうものかと納得した。

「女」。カフカース。コサックが暮らす地域にロシア人たちが流れてくる。その中にはコニョフやタチヤーナがいて……。男にとって女は母親の代わりであるとはよく言われることで、タチヤーナもそう認識している。彼女は聖母マリアに擬せられるのだった。また、当時の女は暇なようで忙しく、次々と子供を産んでいくうちに老いさらばえてゆく。こういうのを読むと、やはり少子化は資本主義の発展が原因なのだと思う。女も男と同じく職能を身に着けて働かねばならない。生産性を重視すればするほど出産から遠ざかっていく。日本が沈んでいくのも宿命なのだった。