海外文学読書録

書評と感想

J・M・バリー『ケンジントン公園のピーター・パン』(1906)

★★

ケンジントン公園には蛇形池が合流しており、その遠い彼方には島があった。島ではすべての赤ん坊の元となる鳥が生まれている。ピーター・パンは生まれてから7日目に人間になることを逃れ、以来、何年経っても同じ年齢のままだった。ピーター・パンは人間と鳥のどっちつかずで妖精たちと暮らしている。ピーター・パンはある手段を使って島から脱出することに。

「君に指貫をあげたい」ピーターはおごそかにそう言って、メイミーに指貫を一つあげました。それからたくさん指貫をあげているうちに、楽しい考えが頭に浮かびました。「メイミー」とピーターは言いました。「僕と結婚してくれない?」

さても不思議なことに、同じ考えが同じこの時、メイミーの頭にも浮かんだのです。「いいわ」とメイミーはこたえました。「でも、あなたのボートには二人乗れるかしら?」(Kindleの位置No.1281-1285)

有名なピーター・パン物語のプロトタイプ。僕が知っているピーター・パンと全然違っていた。挿絵を見るとピーター・パンはでかい赤ん坊だし、妖精たちは総じてグロテスクな容貌をしている(挿絵はアーサー・ラッカムが描いている)。また、お馴染みの海賊フックやネバーランドも出てこない。話はケンジントン公園の紹介に始まり、妖精の生態を描写しつつ人間との交流が童話風に語られる。

本作は物語を楽しむというよりは世界観を楽しむ小説だろう。人間と妖精が共生し、ピーター・パンはそのどっちつかずとして生きている。彼はでかい赤ん坊のまま永遠に歳を取らない。島から脱出して母親に会いたがっている。一方、妖精たちはピーター・パンが公園に留まり、自分たちのために笛を吹いてくれることを望んでいた。

個人的には取るに足らない話でつまらなかったけれど、児童文学は対象読者が子供なので、自分の評価が正しいのかいまいち確信が持てない。こういう小説は子供が楽しめればそれでいいので、汚れちまった大人としては自信をもってつまらないと言えないのだ。自分がつまらなく感じるのは作品の出来が悪いせいなのか、あるいは趣味に合わないだけなのか。そんなわけで、本作は読む人を選ぶような気がする。

一番そそられたのが冒頭の「公園大周遊」で、これはテーマパークのアトラクションを見て回るような楽しみがある。また、妖精の生態を詳述してるところも読みどころで、妖精は人間に気づかれないよう生活している。人間が見ていないときは元気に跳ね回るし、見ているときはピタリと止まって花のふりをする。そういうファンタスティックな世界観が魅力的だった。

ところで、本作では以下のような語りを採用している。

ここで、わたしたちがどんな風にお話をつくり上げるかを申し上げておかなければいけません。それはこんなやり方です。まず最初にわたしがデイヴィドに話をします。それから、デイヴィドがわたしに話すのですが、まったくちがう話をする約束になっています。それからわたしが、デイヴィドのつけ足した部分も含めてもう一度語りなおし、そんなことを何べんも繰り返して、デイヴィドの話なのか、わたしの話なのか、わからなくなってしまうまでつづけます。たとえば、このピーター・パンのお話では、地の文と道徳的な感想の大部分がわたしのものです。全部が、ではありません。このデイヴィドという男の子は厳格な道徳家になることもできるからです。けれども、鳥だった時の赤ん坊の癖や習慣に関する面白い話は、おおむねデイヴィドがこめかみに手を押しあてて、一生懸命に考えて思い出したことです。(Kindleの位置No.251-258)

こういう特殊な語りが全然活かされてなかったのには拍子抜けした。