海外文学読書録

書評と感想

ハンス・ペテル・モランド『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車』(2014/ノルウェー=スウェーデン=デンマーク)

★★★

ノルウェー除雪車の運転手ニルス・ディックマン(ステラン・スカルスガルド)の息子が何者かに殺された。ニルスは芋づる式に関連人物を尋問・殺害していき、下手人がコカインの密輸を扱う犯罪組織であることを突き止める。一方、組織のボスである伯爵(ポール・スヴェーレ・ハーゲン)は部下の死をセルビア人の仕業と勘違い。パパ(ブルーノ・ガンツ)率いるセルビア系ギャングと抗争になる。

ニルスが悪党を一人ずつ始末していく序盤はスリリングだったけれど、本格的に敵と対峙する中盤以降は退屈だった。ただ、相手は犯罪組織なので個人で対抗するにはどうしても限界がある。それゆえにセルビア系ギャングを絡ませたのだろう。終盤の組織的な銃撃戦はチープなところがかえってリアルで、非ハリウッド的な映像表現が新鮮だった。

本作は「死」の演出が面白くて、人が死ぬたびに名前と十字架が表示される。しかも、十字架の部分は死者の宗教によって違っていて、たとえばユダヤ人の場合はダビデの星が表示されるのだった。この演出のいいところは、殺害シーンを直接見せなくても人が死んだと分かるところだろう。それが結果的には粋な雰囲気を醸し出している。一例を挙げると、伯爵に会いに来た男が別室に案内されるところで「死」の表示が出るとか、なかなかスタイリッシュだ。北欧映画もやるなあという感じである。

この演出に合わせるようにドンドン人が死んでいくのも面白い。やはり復讐ものの醍醐味は主人公が敵を殺すところにあって、見ているほうとしても悪党が死んでざまあという気分になる。しかも、人が死ぬたびに名前と十字架が威厳をたたえて表示されるわけだ。これが見る者に殺しの快楽を誘発させている。本作はちょっとした工夫で快楽を引き出しているところがすごい。

「死」の演出と言えば、『仁義なき戦い』シリーズでもやくざが死ぬとテロップで名前と日付が表示されていた。しかし、あれは派手なうえに泥臭かった。本作の演出はその進化形で大幅にソフィスティケートされている。どちらかというと僕は本作のほうが好みで、見ていてぞくぞくするものがあった。時代の違い、あるいは文化の違いは大きいものだと痛感する。

ところで、劇中には福祉国家を巡る議論が出てくる。それによると、北欧が福祉国家なのは寒冷地だかららしい。温暖な地域には福祉国家が存在せず、日差しこそが最大の福祉なのだという。この見解がどこまで妥当かは分からないけれど、視点としては面白いと思った。実際、本作は雪景色が半端なく、まさに「試される大地」という風情だから。政府が支援しないとどうにもならないという気はする。

スティーヴン・クレイン『勇気の赤い勲章』(1895)

★★★★

南北戦争。英雄に憧れる若者ヘンリーが北軍に志願して入隊する。軍隊の内情は自分の想像とは大きく違っていた。ヘンリーは一刻も早く戦闘したくてうずうずしていたが、いざ始まると連隊は崩壊、ヘンリーも戦場から逃走する。ところが、戦列は踏みとどまって勝利を収めていた。ヘンリーは自分のことを哀れんでその場から立ち去る。途中、ヘンリーは負傷した兵士を見て、自分にも傷、すなわち勇気の赤い勲章が欲しいと願う。

男は戦闘で変身を遂げるのだ、と若者は教わっていた。そうした変身によって救われるのだと思っていた。それが、こうして待機させられるのだから苦しくてしかたがない。気持ちがはやった。将軍たちの作戦に一貫性がないことの証ではないか。のっぽの兵士に文句を言い始めた。「もういい加減にしてくれよ」と声を上げた。「足が疲れるばっかりで、なんの意味があるんだ」。青服の軍の存在を誇示するだけの作戦だと知っていた彼は、宿営地に戻りたかった。そうでないのなら戦闘に入り、自分を疑っていたなんてばかだった、実は自分は昔ながらの勇気ある男だったのだと知りたかった。今の引き延ばされた状況は耐えがたいものだった。(Kindleの位置No.491-497)

後年の西部劇に通じる「男らしさ」の問題が出てきて興味深かった。南北戦争当時はまだ戦争がロマンチシズムと結びついていた時代のようで、ヘンリーは戦場で活躍して英雄になりたいと願っている。英雄譚の登場人物として語り草になるのが夢だった。しかし、実際はそうは上手く行かない。近代の戦争とは古代ギリシャのようには行かず、末端の兵士からしたらいつ戦闘が始まるか分からない。また、始まったら始まったで戦況も判断できず、負けたと思って逃げたら実は勝っていたなんてことも起こっている。それもこれも南北戦争ではライフル銃が登場しており、これまでの戦争よりも格段に兵士の死傷者数が増えているのだ。さらに、塹壕戦が始まったのもこの時期である。従来よりもより「死」が身近になった戦争。そんななか、戦闘を通じて「男らしさ」を獲得するのも困難で、古代ギリシャのような牧歌的な英雄譚からは程遠くなっている。

ところが、本作では臆病なヘンリーが一転して英雄になってしまうのだから面白い。彼は連隊の旗手になり、突撃の先頭に立って軍旗をはためかせていた。このおかげで彼は「最高の兵士」と評されることになる。逃亡兵から英雄へ。ヘンリーはなまじっか成功してしまったために自己肯定感が上がり、ロマンチシズムを再生産することになった。「男らしさ」の体現者になったのだ。臆病な心を捨て、危険に向かって果敢に立ち向かう。立ち向かった末に栄光が待っている。このように「男らしさ」の規範とは生存者バイアスの先にあるもので、その後ろには無数の屍が転がっている。ヘンリーはたまたま生き延びただけであり、そういった運のいい者たちが戦場のロマンチシズムを支えているのだ。そう考えると、「男らしさ」とはとても厄介なものだと思う。

現代では「有害な男らしさ(Toxic Masculinity)」が話題だが、これはもう総力戦の時代ではないからだろう。一般の男性は戦争を経験することもなく、平和な社会で平凡な人生を送るしかない。むしろ、「男らしさ」を隠して生活することが奨励されている。戦争の危険から遠のいたからこそ男性権力が衰退しているのだ。これがいいことなのか悪いことなのかは分からない。ともあれ、現代では「男らしさ」の地位は格段に下がり、代わりにフェミニズムが台頭した。フェミニズムによって男性たちは着実に去勢されている。この流れに対し、我々はどう対応していくべきなのか。本作はマスキュリズムを考えるための格好のテキストだと言えよう。

いしづかあつこ『ハナヤマタ』(2014)

★★

中学2年生の関谷なる(上田麗奈)は自分の平凡さにコンプレックスを抱いていた。そんな彼女が金髪の少女ハナ・N・フォンテーンスタンド(田中美海)と出会う。ハナはアメリカから来た転校生だった。なるはハナに誘われてよさこいをすることに。その後、なるの幼馴染の笹目ヤヤ(奥野香耶)と西御門多美(大坪由佳)、さらに生徒会長の常盤真智(沼倉愛美)を加え、よさこい部として大会に参加するのだった。

原作は浜弓場双の同名漫画【Amazon】。

きららアニメのわりにシリアスに寄せていて驚いた。しかも、ストーリー性が高くてとても4コマ漫画が原作とは思えない。先日観た『こみっくがーるず』とは対称的な構成だった。

大会のために仲間を集めていくところは『ラブライブ!』【Amazon】っぽいけれど、実は本作の原作のほうが『ラブライブ!』よりも2年早かった。ということは、『ラブライブ!』のほうが本作に似ているわけだ。この形式はだいたいどれも同じで、仲間集めの過程でメンバーとなる個人を掘り下げていく。たとえば、陽キャのヤヤがバンド活動で挫折したり、父のなすがままに生きてきたタミが自立したり。さらに、マチが自分を見捨てて出ていった姉(豊口めぐみ)と和解したり、ハナが大会前に帰国して悲しい別れをしたりもする。このように個人を掘り下げることで視聴者を感動させようとするところも『ラブライブ!』的だ。

しかし、本作はこのシリアス要素が鼻について仕方がない。というのも、登場人物に降りかかる危機や葛藤が、どれもクリシェをなぞっているだけなのだ。父親からの自立にせよ、姉との和解にせよ、目新しいところは何もない。むしろ、きららアニメにしては無駄にギスギスしているため、見ていて居心地の悪ささえ感じる。ありきたりなテンプレで「ここは感動するシーンですよ」とやられるのは、温厚な僕でもむかっ腹が立つのだ。これなら後発の『ラブライブ!』のほうがまだマシだった。あちらはまだカタルシスの作り方が上手かったから。本作はクリシェクリシェのまま取り入れてギャーギャー騒いでいるだけだからうんざりする。

ハナの帰国エピソードもどうせ戻ってくるのが分かっていたから必要なかった。最終話における危機の煽り方もわざとらしい。退屈な手続きをこってりした演出で見せられて辟易した。

結局のところ、本作の見どころは「和」を前面に出しているところなのだ。和服や日本家屋にこだわりがあるところが目新しい。これは浜弓場双の作風のようで、『おちこぼれフルーツタルト』【Amazon】でもこの路線を踏襲している。『おちこぼれフルーツタルト』はギャグに振り切ってるぶん、本作よりもなんぼか面白かった。きららアニメの場合、シリアス要素はワンポイントで使ったほうが無難で、それを徹底している『ごちうさ』や『こみっくがーるず』は心に響くような感動を生んでいる。本作はクリシェを多用したことで失敗していた。

徳本善信『こみっくがーるず』(2018)

★★★★

女子高生の萌田薫子(赤尾ひかる)は、「かおす」というペンネームで雑誌に4コマ漫画を掲載していた。ところが、読者アンケートで最下位をとってしまう。かおすは編集者(津田美波)の勧めで漫画家専用の女子寮に入る。そこには少女漫画家の恋塚小夢(本渡楓)、ティーンズラブ漫画家の色川琉姫(大西沙織)、少年漫画家の勝木翼(高橋李依)がいた。メンバーはみな女子高生で同じ高校に通う。

原作ははんざわかおりの同名漫画【Amazon】。

これは面白かった。視聴者にまったく負荷をかけないタイプのギャグアニメで、とにかく矢継ぎ早にネタを繰り出していく。可愛い女の子たちがひたすらキャッキャウフフしていて、きらら漫画の正しい映像化という感じだった。シリーズ構成の高橋ナツコは原作クラッシャーとして悪名が高いけれど、本作に限っては最高の仕事をしたと思う。全体的にテンポが良く、頭を空っぽにして楽しめるところがいい。今のところ、きららアニメの中だったら『ごちうさ』の次に好きかもしれない。

同じ漫画家でもそれぞれ描いてるジャンルが違っていて、漫画家たちのキャラも違っている。かおすは女子小学生みたいな外見なのに中身はおっさんで、独特のズレたセンスが視聴者に親しみを感じさせる。翼は少年漫画家だけあってボーイッシュで、漫画の中の登場人物のような天然ぶりを発揮していた。少女漫画家の小夢は翼に惚れており、ティーンズラブ漫画家の琉姫はエロい妄想をしている。このアニメ、かおす単体ではパッとしないものの、4人が集まることで化学反応を起こし、賑やかな笑いに包まれるのだから素晴らしい。日常アニメとはつくづく人間関係のアニメだと思う。

本作にはシリアス要素も入っていて、それが彼女たちの青春を引き立てている。ギャグアニメがシリアスをやると『銀魂』【Amazon】みたいに説教臭くなるものだけど、本作にはそういった夾雑物がないから安心だ。嫌味や臭味がまったくなく、終盤はかおすの成長物語として手堅くまとまっている。シリーズ構成の高橋ナツコは最高の仕事をしたのではなかろうか。普段はギャグで笑わせつつ、ここぞというときにシリアスを入れて青春の一コマを演出する。かおすが漫画家として一皮むけるところを描く。ワンクールアニメでこんなに後味がいいのも久しぶりだった。

準レギュラーにホラー漫画家の怖浦すず(上田麗奈)がいる。彼女はお化けみたいな出オチ要員で完全に浮いていた。一回だけならまだしも、ちょくちょく出てくるのはどうかと思う。レギュラー陣とは明らかに相性がよくなかった。

デヴィッド・リンチ『マルホランド・ドライブ』(2001/米=仏)

★★★

マルホランド通りで自動車事故が発生。後部座席に乗っていた女(ローラ・ハリング)が車から這い出してハリウッドを彷徨う。一方、女優を夢見るベティ(ナオミ・ワッツ)は、叔母が留守の間彼女のアパートに滞在する予定だった。ベティがアパートに入ると前述の女がおり、女はリタと名乗る。リタは記憶喪失だった。

『ロスト・ハイウェイ』が円環構造で終わる閉じた映画なのに対し、本作は現実と幻想が曖昧なまま終わる開かれた映画だった。どうやら謎解きのためのヒントが監督から提示されているようだけど、正直、謎を解きたいとは思わない。テイストとしては『ツイン・ピークス』に近く、印象としてはドラマシリーズを縮めたような感じである。リンチの本領は群像劇にあるので、映画の尺だとどうしても不満が残る。

ナオミ・ワッツローラ・ハリング一人二役を演じている。どちらの役が現実でどちらの役が幻想なのかは分からない。むしろ、両者は微妙にクロスしている。実写映画は人間が人間を演じているから、幻想的な要素を入れる場合、一人二役は有効的な手段なのだろう。そうすることでベティとリタの関係が、別の位相であるダイアンとカミーラの関係に転写されることになる。あり得たかもしれない人生を同一次元上に複製しているわけだ。その結節点になっているのがマルホランド通りであり、この場所が不確かな世界におけるメルクマールのような役割を担っている。

面白かったのは殺し屋がミスを重ねるシーン。ターゲットを射殺して自殺に偽装しようとしたら、誤って壁を撃ち抜いて向こう側のご婦人に弾を食らわせてしまった。仕方なくそのご婦人も始末することになるのだけど、今度は色々あって掃除機を撃ち抜き、その結果、建物中に警報を鳴らしてしまう。殺し屋の間抜けぶりがとても愉快で、こういうポップなユーモアは実にアメリカ的だと思う。

映画監督のアダム(ジャスティン・セロー)も喜劇的なエピソードに関わっていて、彼が帰宅した際、妻が男とベッドインしていたのには面食らう。しかも、その時の妻の態度があまりにふてぶてしくて、見ているほうとしても苦笑せざるを得なかった。その後、アダムが妻の宝石箱を持ち出し、ピンク色のペンキに漬け込んでしまうのだから最高である。そこからまた修羅場が続くのだけど、このシーンもアメリカ的なユーモアが横溢していて面白かった。

本作は2時間半と長尺であるものの、その間まったく退屈させないのはこういった面白エピソードのおかげで、やはりデヴィッド・リンチは群像劇の人なのだと思う。