海外文学読書録

書評と感想

ヤン・シュヴァンクマイエル『ファウスト』(1994/チェコ=仏=英)

★★★★

地図を手に入れた中年男(ペトル・チュペク)が芝居小屋にたどり着き、『ファウスト』の衣装を着て出演する。男は謎の2人組から受け取った道具を使ってメフィストフェレスを呼び出すのだった。男は血の契約を交わしてファウストになる。

同じ監督の『アリス』に比べると現実の風景が多くて実写に寄せている。大きな違いは木製の操り人形が出てくるところだろう。いつものストップモーションを交えつつ、実写と人形劇が融合してシュールな映像ができあがっている。

操り人形の造形が凝っていて、木製のボディにカラフルなペイントが施されている。これがカチャカチャ音を立てながら動き回っているのだから面白い。人形はいかにも東欧の美術といった感じのデザインで味がある。本作は中年男が人間と人形を行き来するところがポイントだろう。人形が人形だけの世界に留まらず、町中に飛び出すところが最高だ。現実の風景と対比されるその不自然な絵面が心地いい。

ストップモーションではメフィストフェレスが姿を現すシーンが面白い。粘土みたいにぐちゃぐちゃしながら人間の顔に変形している。実はその前に赤ん坊が同様の登場をしていて驚いたのだった。どのシーンもわずか一瞬だけど、その一瞬に膨大な熱量が凝縮されていて迫力がある。本作は操り人形とストップモーションが車輪の両輪となって独特の世界を形成している。

外食してたら店主がジェスチャーで指示を出してくるシーンが笑える。というのも、その店主がさも分かってます的ないい表情をしているのだ。しかも、その指示が突拍子もない。中年男に手動のドリルを渡し、テーブルに穴を開けさせている。そして、その穴からワインとおぼしき液体が飛び出している。このようにシュールな光景が日常空間にまで広がっているところが本作の特徴だろう。閉鎖空間で展開した『アリス』よりも野心的だと思う。

一番の見どころはポルトガル津波で滅ぼすシーンだ。ここは登場人物がみな人形で、カチャカチャと忙しなく逃げ回っている。面白いのは波が本物の水ではなく、舞台の小道具を使っているところだ。本物の水は事後的に出てくるだけで、基本的には青空の下で人形劇をやっている。このシーンは人形の動きがとてもキュートだった。

本作は人形の造形で成功しているようなもので、『ファウスト』【Amazon】の物語は美術を見せるための導線に過ぎない。ストーリーはほぼ意味がないと言っていいだろう。最初に述べた通り、実写と人形劇の融合が素晴らしかった。

フェデリコ・フェリーニ『フェリーニのアマルコルド』(1973/伊=仏)

★★★★

1930年代。イタリア北部の港町では春の訪れを告げるかのように綿毛が舞っていた。15歳の少年チッタ(ブルーノ・ザニン)は地元の悪ガキで、父(アルマンド・ブランチャ)と母(プペラ・マッジオ)の口論の原因になっている。チッタはグラディスカ(マガリ・ノエル)という年増の女に惚れていたが、彼女からは軽くあしらわれるのだった。あるとき、父が何者かの密告によってファシストに連行される。

15歳の一年間を描いた自伝的映画。思わってみればしみじみとした感慨があったが、自分とあまりに環境が違いすぎて面食らった。というか、そもそもファシスト政権下だから違うのも当たり前である。日本人の僕がこれを見てノスタルジーを感じるわけがない。とはいえ、登場人物がみな異様にアクが強く、自分とは縁遠いフィクションとして捉えるなら魅力的だ。印象的なシーンがいくつもあって、その集積が時の流れを形作っている。綿毛で始まり綿毛で終わる構成が素晴らしかった。

家族団欒の食事の席。父と母が子供の躾をめぐってキレ散らかすシーンが面白い。こういうのって目の前で起きたらうんざりするが、画面越しで見るぶんには滑稽さを楽しむ余裕がある。ドストエフスキーの小説に代表される通り、ハイテンションの人間はとにかく可笑しいのだ。当人にその意図はなくても、一挙手一投足にそこはかとないユーモアが宿っている。いわば見世物としての人間。自分と関わりがなければ面白い。

本人が意図しない面白さと言えば、精神病院に入院している叔父さんもそうだろう。親族に迎えられて外に出た叔父さんは、突然木に登って「女が欲しい!」と叫び出す。これが狂人ならではのムーブで笑ってしまう。親族がどうにかして引きずり降ろそうとするも、上から物を投げつけてくるのだから始末に負えない。結局は病院の職員を呼んで事態を収拾することになる。このエピソードは本作の喜劇性を代表するかのようだった。

ファシスト政権下のわりに生活を謳歌しているところが意外で、父が拷問されたことを除けばみな楽しそうだった。小舟に乗って豪華客船を見に行ったり、町中で自動車レースを開催したり、思いのほか自由に振る舞っている。また、春先には祭りに興じ、冬には雪合戦で遊んだりもするのだった。戦争が始まるまでは締め付けもさほど強くなかったのかもしれない。ただ、町の人たちがファシストに熱狂している様は異常で、そこは歴史の闇として注目に値するだろう。グラディスカの結婚相手もファシストの仲間だったし。戦後は価値観が180度変わってしまうから大変である。

チッタがタバコ屋の女に弄ばれるが、その女が巨体に見合った巨乳をしていて迫力があった。おそらくKカップくらいはある。『宇崎ちゃんは遊びたい!』【Amazon】の宇崎ちゃん、あるいは『小林さんちのメイドラゴン』【Amazon】のイルルを連想した。

庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021/日)

★★★★

赤い大地をさまようシンジ(緒方恵美)とレイ(林原めぐみ)とアスカ(宮村優子)は、大人になった相田ケンスケ(岩永哲哉)に救助され、第3村で生活することになる。そこには鈴原トウジ(関智一)と元委員長のヒカリ(岩男潤子)もいた。いじけていたシンジはみんなに見守られながら元気になり、やがてヴンダーに乗船する。ヴンダーには同じくエヴァパイロットのマリ(坂本真綾)がいた。エヴァンゲリオンに乗ったシンジは、マイナス宇宙で父のゲンドウ(立木文彦)と対峙する。

『序』、『破』、『Q』に続く4部作の最終作。

相変わらず、しょうもない話を壮大なスケールでやっているのだけど、今回は旧劇とは正反対のポジティブなオチがついたので良かった。実写パートの使い方も、『Air/まごころを、君に』に比べたら健全である。本作は親子の対決や虚構と現実の融合など、所々に庵野秀明のライフワーク的な部分が垣間見えて興味深い。事前に『式日』を履修しておくと理解が深まる。

旧劇のときはシンジの立場で見ていたが、新劇はゲンドウの立場で見ている自分がいて、それゆえに感動もひとしおだった。自分も大人になったがゆえに、大人というのは想像していたのもよりもずっと愚かだというのを実感している。たとえば、ゲンドウの人類補完計画なんて幼稚の極みである。いくら大切な女とはいえ、死んだ女のことはいい加減諦めるべきなのだ。しかし、それでもやらずにいられないのが大人の愚かさであり、人類を巻き込んでまでエゴを押し通す様には涙を禁じ得ない。

ゲンドウは大人になったおたくである。つまり、我々の象徴である。ゲンドウは我々と同じく自閉的な子供時代を過ごしていた。他人と関わるのが嫌な一方、一人で本を読んで知識を得るのは好きだった。大学時代までは一人のほうが楽だと思っていたものの、それも運命の女と出会うことで一変、人生が楽しくなる。しかし、女と死別することでまた孤独に戻ってしまうのだった。一度幸福を味わったあとの孤独は格別につらく、それゆえに人類補完計画に着手してしまう。これこそ不幸なおたくの典型だろう。幸福を取り戻すためにはどんな犠牲も厭わない。他人の人生なんて知ったことではない。その不器用な生き様は通り魔的であり、おたくである我々と重なるところがある。

ゲンドウとシンジのエディプス的な対決はゲンドウのほうが望んだものだ。ゲンドウがシンジをネグレクトしていたのは贖罪の意味があった。ゲンドウは外見こそ大人であるものの、我々と同じく中身が子供なので、息子との適切な接し方が分からなかったのである。だから贖罪なんて言い訳をしている。父が息子をしばく。息子がそれに抗う。しかし、親子での殴り合いには意味がなく、話し合いこそが重要だと息子に説く。こうしてゲンドウは息子と向き合い、父の責務を果たすことでようやく大人になることができた。おめでとう、ゲンドウ。ありがとう、エヴァンゲリオン。ゲンドウが大人になることで、我々も『エヴァンゲリオン』から卒業することができた。虚構から現実へ。26年の月日を経て、おたくたちの魂は浄化されたのだった。

その後は親の不始末を息子が尻拭いしていて、あの頼りなかったシンジが成長したことに目を細めた。結局のところ、我々は親の視点からでしか本作を見ることができない。子供の頃に見た旧劇。大人になってから見た新劇。思えば、どちらも徹頭徹尾おたくの物語だった。

ところで、本作と『魔法少女まどか☆マギカ』が似たような結末を迎えたのはどういうことなのだろう? 前者ではシンジが「エヴァのない世界を作る」ことを目指し、後者ではまどかが「魔女のいない世界を作る」ことを目指している(『進撃の巨人』における「巨人のいない世界を作る」もこれの応用である)。そして、両者は世界を再創造することで目的を果たした。この「世界の再創造」というのが今世紀のトレンドなのかもしれない。

追記。その後、『監督不行届』を読んだら本作がハッピーエンドになったのも納得した。庵野秀明は結婚してから私生活が幸せそうである。真希波・マリ・イラストリアスが安野モヨコという説も説得力がある。

 

ルネ・クレール『リラの門』(1957/仏=伊)

★★★★

無職で飲んだくれのジュジュ(ピエール・ブラッスール)は家族からは疎まれていたものの、地元の人たちからは好かれていた。ある日、近所に住む友人・芸術家(ジョルジュ・ブラッサンス)の家に殺人犯のピエール(アンリ・ヴィダル)が逃げ込んでくる。2人は成り行きから匿うことになった。やがてピエールの存在が酒場娘のマリア(ダニー・カレル)にバレることに。マリアはジュジュが密かに思いを寄せる女で……。

大人のおとぎ話になりそうなところをギリギリで回避している。これはつまり、お人好しの善意が必ずしも報われるわけではない、ということなのだろう。やさしさで感化できるほど人間は甘くない。本作は人間とは何なのかをわずか100分の尺で示していて面白かった。

無職で飲んだくれているうえ、時に盗みを働くジュジュは資本主義の倫理から外れている。しかし、人道からは外れない生き方をしていて、自分たちの元に転がり込んできた殺人犯を匿っている。常人だったら迷うことなく官憲に引き渡すところだろう。法に従うのが近代市民の義務なのだから。ところが、ジュジュはそうしない。自分と縁ができたから成り行きで相手を助けている。ジュジュの行いは法の支配に背くものだが、しかし世の中には法を超えた人情というものがあり、彼はそのことを直感的に理解していた。冒頭でジュジュは「みんな汚れている」と芸術家に言い放つ。自分と芸術家以外は汚れている、と。資本主義の倫理から外れているがゆえにイノセントなところは、現代人から見ても納得できるものがある*1

ピエールの人物像がなかなか複雑で、それゆえに本作を名作たらしめている。当初は怯えた小動物のような感じで、ジュジュたちに敵意を剥き出しにしていた。ところが、落ち着いてからは徐々に警戒レベルが下がり、遂にはジュジュのことを「唯一の友達だ」と認めることになる。追い詰められて精神的に余裕がなかったところから、段々と余裕ができて相手の善意を受け入れるようになったのだ。ただ、そうは言っても完全に改心したわけではなく、要所要所で不安定なところを見せている。そして、終盤では思わぬ展開を迎えるのだった。

ジュジュをイノセントな人間として造形しながらも、物語を性善説で終わらせないところが本作のすごさだろう。一人の人間の中には善も悪も混ざっていて、その時々で違った部分が表出する。多くは環境がもたらす精神状態によって左右される。本作は人間を捉える解像度が抜群に高かった。

*1:ジュジュが子供たちの間で人気なのは、彼が「大人」ではないからだ。自分たちと同じイノセントな存在と見なされているからである。

蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』(2004-)

やまぶき高校美術科に合格したゆのが、学校の門前にあるアパート「ひだまり荘」に入居する。隣室には同級生の宮子、下の階には2年生のヒロと沙英が住んでおり、4人は仲良く交流するのだった。

既刊10巻。そのうち9巻まで読んだ。本作は4期にわたってアニメ化【Amazon】されており、アニメではヒロと沙英の卒業までを扱っている(未見)。

ゼロ年代にスタートした漫画のわりに、絵に違和感がなくて驚いた。樋上いたるの絵をゼロ年代の代表とするならば、それよりも確実にテン年代のほうを向いている。むしろ、2004年の時点で『魔法少女まどかマギカ』【Amazon】の面影さえあるのだから驚きだ。この年はちょうどゲーム『CLANNAD』【Amazon】と同時期なので、やはり文化的には名実ともにゼロ年代全盛期である。それなのに今読んでもしっくりくるのだからすごい。ゼロ年代も捨てたものではないと思った。

本作のような女子寮ものってきらら系にはけっこうあって、たとえば、『こみっくがーるず』【Amazon】や『おちこぼれフルーツタルト』【Amazon】なんかが思い浮かぶ。このジャンルの利点は主要キャラをひとつの場所にまとめておけるところだろう。学校生活も私生活も満遍なくネタにできる。結局、この手の漫画は女子同士でいかにしてキャッキャウフフするかなので、そのために女子寮を使うのは合理的なのだった。というわけで、女子寮ものが一時代を築くのも納得である。

てっきりサザエさん時空で話が展開するのかと思っていたら、ちゃんと時間が経過していて驚いた。プールや文化祭、クリスマスといった季節のイベントから、進学・進級といった環境を一新するイベントまで一通り揃えている。進学や進級に伴ってメンバーが入れ替わるところは『げんしけん』【Amazon】っぽい。高校生活はわずか3年しかなく、いつか必ず終わりが来る。限られた時間の中で生活しているからこそ尊いのだ。作中では各人が進路について迷っていて、ギャグの中にもきらりと光る青春が散りばめられている。ただの萌え系ギャグ漫画で終わってないところが良かった。

多いときはレギュラーキャラが6人いるのだけど、ちゃんとキャラの描き分けができているところもいい。絵柄は『キルミーベイベー』ほどシンプルではなく、ほどほどに線が使われている。要は4コマ漫画のわりに凝ったキャラデザなのだ。それをスクリーントーンやら何やらによってキャラを彩り、ひと目で違いを分からせている。まるできららフォーマットの限界に挑戦しているかのようだった。