海外文学読書録

書評と感想

フェデリコ・フェリーニ『フェリーニのアマルコルド』(1973/伊=仏)

★★★★

1930年代。イタリア北部の港町では春の訪れを告げるかのように綿毛が舞っていた。15歳の少年チッタ(ブルーノ・ザニン)は地元の悪ガキで、父(アルマンド・ブランチャ)と母(プペラ・マッジオ)の口論の原因になっている。チッタはグラディスカ(マガリ・ノエル)という年増の女に惚れていたが、彼女からは軽くあしらわれるのだった。あるとき、父が何者かの密告によってファシストに連行される。

15歳の一年間を描いた自伝的映画。思わってみればしみじみとした感慨があったけれど、自分とはあまりに環境が違いすぎて面食らった。というか、そもそもファシスト政権下だから違うのも当たり前である。日本人の僕がこれを観てノスタルジーを感じるわけがない。とはいえ、登場人物がみな異様にアクが強く、自分とは縁遠いフィクションとして捉えるなら魅力的だ。印象的なシーンがいくつもあって、その集積が時の流れを形作っている。綿毛で始まり綿毛で終わる構成が素晴らしかった。

家族団欒の食事の席。父と母が子供の躾をめぐってキレ散らかすシーンが面白い。こういうのって目の前で起きたらうんざりするけれど、画面越しで見るぶんには滑稽さを楽しむ余裕がある。ドストエフスキーの小説に代表される通り、ハイテンションの人間はとにかく可笑しいのだ。当人にその意図はなくても、一挙手一投足にそこはかとないユーモアが宿っている。

本人が意図しない面白さと言えば、精神病院に入院している叔父さんもそうだろう。親族に迎えられて外に出た叔父さんは、突然木に登って「女が欲しい!」と叫び出す。これが狂人ならではのムーブで笑ってしまう。親族がどうにかして引きずり降ろそうとするも、上から物を投げつけてくるのだから始末に負えない。結局は病院の職員を呼んで事態を収拾することになる。このエピソードは本作の喜劇性を代表するかのようだった。

ファシスト政権下のわりに生活を謳歌しているところが意外で、父が拷問されたことを除けばみな楽しそうだった。小舟に乗って豪華客船を見に行ったり、町中で自動車レースを開催したり、思いのほか自由に振る舞っている。また、春先には祭りに興じ、冬には雪合戦で遊んだりもするのだった。戦争が始まるまでは締め付けもさほど強くなかったのかもしれない。ただ、町の人たちがファシストに熱狂している様は異常で、そこは歴史の闇として注目に値するだろう。グラディスカの結婚相手もファシストの仲間だったし。戦後は価値観が180度変わってしまうから大変である。

チッタがタバコ屋の女に弄ばれるのだけど、その女が巨体に見合った巨乳をしていて迫力があった。おそらくKカップくらいはある。『宇崎ちゃんは遊びたい!』【Amazon】の宇崎ちゃん、あるいは『小林さんちのメイドラゴン』【Amazon】のイルルを連想した。