海外文学読書録

書評と感想

大島渚『太陽の墓場』(1960/日)

太陽の墓場

太陽の墓場

  • 炎加世子
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★★★

釜ヶ崎のドヤ街。花子(炎加世子)はヤス(川津祐介)たちと協力して売血で稼いでいた。そんなある日、武(佐々木功)と辰夫(中原功二)の幼馴染が愚連隊の信栄会に入る。花子は信栄会の会長・信(津川雅彦)とビジネスをすることになった。信栄会は暴力団の大浜組を恐れてドヤを渡り歩いてる。一方、ドヤ街では動乱屋(小沢栄太郎)が一目置かれるようになっており……。

愚連隊が何なのかよく分からないのだが、要は現代の半グレみたいなものだろうか。反社会的な組織であるものの、暴力団のような格式はない。会長を含め構成員がみな若く、見た感じ不良集団の延長のようである。ただし、掟はとても厳しい。裏切り者は容赦なく殺害している。愚連隊とは不良集団と暴力団の中間にある団体なのだろう。若者を統制したガチな集団であるところが目を引く。

登場人物はドヤ街の住人と愚連隊の若者の二層に分かれているが、完全に分離されているわけではなく、両者は混ざり合っている。どちらも社会の底辺で必死に生きるバイタリティが半端ない。そして、ドヤ街と愚連隊を股にかけるのがヒロインの花子で、彼女は持ち前の気の強さを武器に剣呑な抗争を生き延びている。注目すべきは愚連隊に入ったばかりの武だろう。優男の彼は外見と同じくらい心が繊細で、自分がした行いに罪悪感を抱いている。武は非情になりきれなかったために悲劇に見舞われた。したくもないことをするはめになった。一方、彼とは対照的なのが花子だ。彼女は武と違って非情である。生き馬の目を抜く世界で生き延びるには非情でなくてはならない。他人を食う覚悟を決めないと自分が食われてしまう。生存競争においてはこの覚悟こそが重要なのだ。花子と武の関係においては覚悟の差が如実に表れている。

大日本帝国のために働いていると嘯く動乱屋は扇動者である。彼はソ連が日本に攻めてきて世の中が変わると触れ回っている。その様子はまるでイエス・キリストだ。ドヤ街の人たちも少なからず彼に乗せられている。なぜ乗せられたのかというと、彼らも世の中が変わってほしいと願っているからだ。いつまでもこんな生活は嫌だ。戦争のガラガラポンによって世の中が好転してほしい。戦争の焼け跡よ、もう一度。まさに「希望は、戦争。」なのである。資本主義社会だとどうしても貧富の差が出てしまうわけで、その不満が戦争に吸い寄せられてしまうのは世の常だろう。しかし、実際は平和を維持することによって日本社会は変わった。貧富の差は相変わらずだが、底辺層の生活が底上げされた。現代は当時よりもルンペンの数が少ない。戦争によるガラガラポンよりも平和を維持することのほうが貧困対策としては有効なのだ。ガラガラポンによって焼け跡から一斉スタート。そんなことをしても苦しみが再生産されるだけである。「希望は、戦争。」はやはり浅はかとしか思えない。

印象に残っているシーン。愚連隊が宴会しているところに男が入ってきた。信が命知らずアピールをして男を退散させる。その後、武が入ってきてちょっとした掛け合いをすることになった。ところが、信がいくら怒鳴りつけても武は言うことを聞かない。どちらが男として貫目があるかは一目瞭然である。この掛け合いはそれまで完璧なリーダーだった信にケチがついた瞬間であり、その後の運命を象徴するようなシーンだった。