海外文学読書録

書評と感想

大城立裕『カクテル・パーティー』(1967)

★★★★

短編集。「亀甲墓 実験方言をもつある風土記」、「棒兵隊」、「ニライカナイの街」、「カクテル・パーティー」、「戯曲 カクテル・パーティー」の5編。

 「あそこに」孫氏が遠くを指さした。「二人のひとが歩いて行きますね。ひとりはアメリカ人で、ひとりは沖縄人です。二人のあいだは、かなり距離をおいているが、仲間のようです。話しあっているが、ここからは聞こえないから、なんとなく二人のあいだの隔たりを感じる。ちょうど、あれみたいですよね、私たちの関係は」(pp.188-189)

「カクテル・パーティー」で芥川賞を受賞している。

以下、各短編について。

「亀甲墓 実験方言をもつある風土記」。沖縄を米軍が艦砲射撃してきた。善徳とウシの老夫婦が、家族と共に先祖の墓に避難する。攻撃の隙を窺ってサトウキビを刈りに行くと、近所の校長先生が泥棒していた。序盤は突如日常が破られる混乱が描かれる。そして、中盤はその混乱を引き摺ったまま非日常を送り、家長が死んだ際は荼毘に付そうと日常がひょっこり顔を出す。先祖を敬う。死者を敬う。そういった信仰心が強いから非日常を貫けない。信仰は日常と非日常を超越したところにあって、人間はいかなる場合でもその規範から逃れられないのだ。本作では墓の門が女陰の形象であり、死者も生者も胎内回帰している。このような象徴的な図式も信仰への引力を強めている。根底にあるのは死者への恐れ。引いては自分が死ぬことへの恐れだろう。

「棒兵隊」。G村で招集された防衛隊が日本軍の潜む壕へ合流しようとする。ところが、将校から乞食呼ばわりされて追い出される。折しも兵隊の間では米軍がスパイを送り込んできたという噂が流れ……。人間は切羽詰まった状況下では正常な判断ができないし、生死がかかると自己保存の本能が働いて暴力的になる。追い詰められた人間のパラノイア的な狂気。先の戦争では日本人が同じ日本人に犠牲を強いたわけで、国家という枠組みも信用ならない。

ニライカナイの街」。時子は米兵のポールと結婚しており、子供も一人いる。ところが、まだ籍は入れていなかった。ポールはベトナム戦争に従軍している。ある日、時子はポールがアメリカ本土に本妻を抱えていることを知る。ニライカナイとは海の向こうにある神の国で、困ったときにこちらを助けてくれる伝承の地である。時子にとってそれはアメリカだった。ここで面白いのは、沖縄人の特徴に「騙されやすさ」を挙げていることだ。沖縄人は憧れた対象を無闇に信じる。それこそが南方的な性格なのだという。時子とポールはちょうど沖縄とアメリカのメタファーになっていて、時子はポールに騙され、沖縄はアメリカに騙されている。沖縄人は日本復帰を夢見ているが、これが果たされても今度は日本に騙されることになるだろう。信じても信じても沖縄人は報われない。自分たちを助けてくれるニライカナイなんて存在しないのだった。

「カクテル・パーティー」。沖縄人の「私」が、基地住宅で開催されているカクテル・パーティーに参加する。パーティーから帰宅すると、「私」の娘が米兵にレイプされていた。娘はレイプされた際、米兵を崖から突き落として大怪我させたため、翌日になって逮捕される。沖縄とアメリカの不平等な地位協定が題材だけど、そこに中国が絡むことで複雑な鏡像関係ができている。それがまた絶妙だった。沖縄はアメリカに対しては被害者である。しかし、かつての戦争では中国に対して加害者だった。日本人、アメリカ人、中国人。危ういバランスで成り立っていた偽りのカクテル・パーティー(=国際親善)が、レイプ事件によって脆くも崩れてしまう。いつの時代も支配者は被支配者に対して暴力を振るい、それが裁かれることはない。本作は沖縄とアメリカの関係に中国を混ぜることで普遍性を獲得している。

「戯曲 カクテル・パーティー」。1995年から「カクテル・パーティー」の出来事を振り返るという構成。「私」の娘は渡米してアメリカ人弁護士と結婚している。本作では日本の真珠湾攻撃アメリカの原爆投下を加えているところが新しく、被害者・加害者の関係に一歩踏み込んでいる。