海外文学読書録

書評と感想

松本零士『宇宙戦艦ヤマト』(1974-1975)、松本零士『宇宙戦艦ヤマト2』(1978-1979)、松本零士・山本暎一『宇宙戦艦ヤマトⅢ』(1980-1981)

★★

2199年。地球はガミラス帝国による攻撃で放射能汚染された。人類はやむなく地下都市で生活しているが、放射能汚染によって1年後には絶滅する見込みである。そこへ遠くイスカンダル星から助け舟がやって来る。イスカンダル星まで来れば放射能を除去するコスモクリーナーをくれるというのだ。かくして宇宙戦艦ヤマトは旅に出る。

『宇宙戦艦ヤマト』が全26話、『宇宙戦艦ヤマト2』が全26話、『宇宙戦艦ヤマトⅢ』が全25話。

プライム・ビデオのスターチャンネルEXで独占配信中である。たまたま加入していたので見た。言わずとしれた古典的名作だが、現代人が見るときつい。というのも、現代には『機動戦士ガンダム』や『銀河英雄伝説』といった上位互換があるから。これが当時のエポックメイキングであることは認めるにしても、内容は稚拙で今更見るようなものではない。おたくの必修科目を履修するつもりで見たが、その時間をもっと別のことに使うべきだった。真面目に全部見たのを後悔している。

シリーズを通して気になったのは反復が多いことだった。異星に住む女神的人物に助けてもらう、ロードムービー的な構成にする、ヤマト1隻で問題を解決してしまう。1作目で敵役として登場したデスラーも皆勤賞である。おそらく1作目の劇場版がヒットしたせいで続編は大胆にチャレンジできなかったのだろう。特に3作目は1作目で好評だった部分を継承しすぎていて興醒めだ。端的に言えば守りに入っている。戦死する乗組員も新人ばかりで古参は誰一人死なない。ガンダムシリーズに比べると引き出しが少なくて幼稚に見える。

特攻が多いのは西崎義展の趣味だろう。敵が特攻するのは愚行と解釈できるからいいとしても(恐怖やプライドが源泉にあるので)、味方が特攻するのはそれによって感動させる意図があって乗り切れない。特に3作目のラスト、揚羽武(古川登志夫)に特攻させる必要なんてあっただろうか? 土門竜介(田中秀幸)も揚羽武も次代を担う新人なのに彼らを敢えて使い捨てにしている。古代進(富山敬)や島大介(仲村秀生)といった古参は人気があって殺せない。だから代わりに新人を殺した。そういう大人の事情が垣間見える。しかし、作劇としては収まりが悪い。戦死者が出ないとリアリティが出ないのは分かるが、これなら無理して殺す必要はなかった。『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が顕著だったが、西崎義展には特攻フェチみたいなところがある。自己犠牲こそ尊いという考えを持っており、だから味方を特攻させる。これはよくない。

女神的人物も目立つ。1作目のスターシア、2作目のテレサ、3作目のルダ。地球は彼女たちの協力によって救われている。スターシアとルダはほとんど同じ役割だ。スターシアは地球の放射能を除去するコスモクリーナーを、ルダは太陽の核融合を制御するハイドロコスモジェン砲を地球人に提供している。一方、テレサだけはちょっと変わっていて、ヤマトの代わりに特攻して消滅する。2作目は古代進の特攻を回避する結末なのに、結局は女神的人物が特攻するのだから意味がない。これを主導した西崎義展は反省すべきである。

総じて戦闘シーンが死ぬほど退屈だが、1作目みたいに機知で切り抜ける展開は悪くなかった。ただ、段々と大雑把になっていくというか、ヤマト1隻で無双するのだからどん引きである。敵艦の攻撃がいくら当たっても撃沈しない。なのにヤマトの攻撃は普通に通って木っ端微塵にしてしまう。敵のほうがテクノロジーで勝っているのにどういうことだろう? ヤマトと敵艦で耐久力に差がある結果、たった1隻で艦隊を相手に勝利するのだから呆れる。こういったご都合主義は昔のアニメの限界に見えた。

本作で古代進を演じた富山敬が『銀河英雄伝説』でヤン・ウェンリーを演じている。やはり意識した配役なのだろう。その後のSFアニメは本作抜きでは成り立たなかったわけで、エポックメイキングとしての価値は尊重したい。ただ、本作を見るくらいなら『機動戦士ガンダム』や『銀河英雄伝説』を見たほうがよっぽどいいことも付記しておく。ヤマトシリーズはこの2作に乗り越えられてしまった。