海外文学読書録

書評と感想

舛田利雄、松本零士『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978/日)

西暦2201年。ヤマトがガミラスを打ち破って1年が経ち、地球も再建を終えていた。そんななか、地球に謎の白色彗星が迫ってくる。その正体はズォーダー大帝(小林修)率いる白色彗星帝国で、宇宙の惑星を続々と植民地にしていた。ガミラスのデスラー総統(伊武雅刀)もそこに身を寄せている。古代進(富山敬)たちは廃艦寸前のヤマトを起動させて帝国に立ち向かう。

『宇宙戦艦ヤマト』の続編。

テレビシリーズも本作もプライム・ビデオのスターチャンネルEXで独占配信している。このヤマトシリーズは東北新社が権利を持っているようだ(スターチャンネルEXは東北新社のチャンネル)。アニメの独占配信は悪い文化なのでやめるべきである。なぜなら『サマータイムレンダ』、『東京リベンジャーズ』、『天国大魔境』はDisney+が独占配信したせいで話題にならなかったし、『マブラヴ オルタネイティヴ』、『星屑テレパス』はFODが独占配信したせいで話題にならなかった。アニメは独占配信するとコンテンツとして死ぬ。マイナーな事業者が囲うべきではない。

おたくにネトウヨが多いことはよく指摘されることだが、おたくである僕にもその理由が分からない。ただ、このヤマトシリーズはネトウヨが好きそうな内容だ。というのも、歴史修正主義の色合いが濃厚なのである。たとえば、最初の『宇宙戦艦ヤマト』は大日本帝国がナチス・ドイツと戦うという内容だった。このことは伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学』【Amazon】や藤津亮太『アニメと戦争』【Amazon】でも指摘されている。

以下は『ネット右派の歴史社会学』からの引用である。

この作品ではかつての大和を模したヤマトにより、かつての大日本帝国軍を模した地球防衛軍が、かつてのドイツ第三帝国を模したガミラス帝国と戦う。なお、ガミラス側の指導者は、デスラー総統(アドルフ・ヒトラー)、ヒス副総統(ルドルフ・ヘス)、ドメル将軍(エルヴィン・ロンメル)など、ナチスドイツのかつての指導者を模したものだった。彼らを倒して地球を救うことになる地球防衛軍の姿を通じて、そこではかつての大日本帝国がいわば復権させられることになる。しかしそれはかつてのようにナチスドイツの同盟国としてではなく、その敵対国として、つまりファシズムと戦って民主主義を守る側の者としての復権だった。戸松幸一らによれば「平和と自由、そして平等を愛する戦後民主主義惑星、地球」の守護者となったヤマトのそうした姿には、「敗戦国日本の、ちょっと歪んだナショナリズムの夢」が投影されていたという。そこでは戦闘サブカルチャーが戦後民主主義的な視座を取り込み、両者の次元をねじれたかたちで結び合わせることにより、自らのなかに整合的に共在させることを試みていたと言えるだろう。(pp.118-119)

著者は『機動戦士ガンダム』や『銀河英雄伝説』も歴史修正主義の枠に入れているが、僕はその説に与さない。ともあれ、ヤマトシリーズが歴史修正主義の視座を持っていることは確かだ。その右翼的な思想が受け入れられたのか、ヤマトは当時の子供たちに評価され、現在では誰もが知る古典になっている。おたくの保守志向は近年の傾向ではなく、第一世代(1960年前後生まれ)から既にあった。我々はここにネトウヨの源泉を見る。

現代人からすると、敵勢力が帝国主義というのは古臭く感じる。宇宙各地を征服して植民地支配をするのは近世から近代の発想だ。本作が公開された70年代はもはやそういう時代ではない。アメリカもソ連も同盟国や衛星国を作って敵国と対峙していた。敵が帝国なのは、それと戦うヤマト(日本)が民主主義の擁護者であることを高らかに謳うためだろう。敵の白色彗星帝国はアメリカのメタファーであり、本作の戦いは太平洋戦争の語り直しである。だから最後は特攻で幕を閉じる。

こういう物語が作られた背景は何となく想像できる。当時の日本は戦後の復興を果たしたうえ、高度経済成長を遂げて世界第2位の経済大国になった。戦争にも巻き込まれず平和を享受している。太平洋戦争で痛めつけられた日本人も今では自信がついた。物質的に豊かになった日本にとって唯一の汚点は過去の敗戦だ。大日本帝国はアジアに加害し、その懲罰としてアメリカにボコられた。そういった負の歴史をどうにかして修正したい。つまり、ヤマトシリーズは当時の日本人の願いが込められた物語なのである。

現代でも大日本帝国の悪行は日本人にとって喉に刺さった小骨になっている。慰安婦問題がそうだし、南京大虐殺がそうだ。そのことで隣国から散々非難されている。歴史の重みに耐えられない者はネトウヨとなり、過去の悪行を否認するようになった。戦後から現在に至るまで日本人は敗戦を引きずってきたし、これからも引きずっていくのだろう。そのひとつの里程標がヤマトシリーズである。我々は本作を通じて戦後日本の歪みを知る。

本作は『宇宙戦艦ヤマト』の反復が目立つ。ヤマトに協力するテレサはスターシャを彷彿とさせるし、森雪が死ぬのも前作と同じである(前作ではラストで生き返った)。途中から古代が艦長として指揮を執るようになったり、ヤマト一隻で敵勢力を撃破したりするのもそうだ。これらは西崎義展の手癖かもしれないが、個人的には二匹目のドジョウを狙った感が否めない。引き出しが少ないのは昔のアニメだから仕方がないのだろう。おたくの必修科目とはいえ、現代人が見るとかなりきつい。