海外文学読書録

書評と感想

中平康『アラブの嵐』(1961/日)

★★★

宗方真太郎(石原裕次郎)は大日本物産社長の孫だったが、あるとき自分が温室育ちであることに気づかされる。祖父の遺言に従って世界に出ることにした。旅客機でゆり子(芦川いづみ)と知り合った真太郎は一緒にエジプトに行く。真太郎はエジプトで中川(小高雄二)という謎の人物に案内してもらう。そして、民族独立派と帝国主義派の争いに巻き込まれる。

異国の地でヒッチコック風の巻き込まれ型スリラーをやっている。この時代に本格的な外国ロケはけっこうすごいのではないか。1ドル360円の超円安時代である。経済的には今と比べものにならないくらいハードルが高かった。しかも、現地ではピラミッドに登ったり、世界遺産の内部に入り込んだり、今ではできないことばかりやっている。海外旅行に行けなかった庶民に異国趣味を味わわせるという意味では有意義だったのだろう。外国人キャストもたくさん出ていて気合が入っていた。

真太郎は外国語がほとんど分からない。英語を義務教育レベルで話せる程度だ。だからアラビア語を話す現地人とは意思の疎通ができない。途中まではこのハンデがポイントになっている。というのも、真太郎はトラブルに巻き込まれるのだが、言葉が分からないゆえに巻き込まれていることに気づかないのだ。何度か訪れる危機も気づかないまま運の良さで切り抜けている。当初はこの一方通行ぶりが見所だった。

ペンダントがマクガフィンとして機能しいてる。中にはマイクロフィルムに収められた機密文書が入っており、民族独立派と帝国主義派が争奪戦を繰り広げている。あろうことか真太郎がそのペンダントを所持することになった。真太郎は終盤までペンダントの重要性に気づいていない。自分がなぜ狙われているのかも分からなかった。観客は知っているのに登場人物は知らない。この情報格差がスリルを醸成させる一因になっていて、スリラーの様式美にも合理性があるのだなと感心する。

外国人のセリフは吹替版映画みたいに処理していて工夫の跡が見られた。原語から日本語吹替への移行は大変スムーズである。今だったら原語と字幕の組み合わせで臨場感を出しただろうが、当時はそういうことをしなかったようだ。60年代の表現手法として興味深い。そして、アラビア語は日本人にとってマイナーな言語だが、ゆり子と中川はそれをマスターしている。真太郎は2人に助けられて状況を把握し、最後は収まるべきところに収まった。言葉が通じないというハンデを活かしつつ、劇の進行に合わせて真太郎が把握する情報をコントロールしている。そこはよく考えられていた。

民族独立派と帝国主義派の争いはピンとこない。当時のアラブ世界にそんなものあったのだろうか。こういうのを見ると、『ゴルゴ13』のリサーチャーが優秀であることを思い知らされる。また、劇中で真太郎と現地人がピラミッドを登っているが、これがまた危険そうで本編よりもスリリングだった。落ちたらただでは済まない。そういう緊張感がある。そして、ゆり子役の芦川いづみが相変わらず美しかった。彼女の姿をカラーで堪能できるだけでも眼福である。本作を見たのは芦川いづみ目当てと言っても過言ではない。