海外文学読書録

書評と感想

滝沢英輔『無法一代』(1957/日)

★★★

明治末期。鰐口貫太(三橋達也)は軍隊にいた頃、貧乏ゆえに理不尽な目に遭わされた。そのときの恨みから金儲けの鬼になる。借金した貫太は妻のお銀(新珠三千代)と共に貫銀楼という廓を開く。娼妓は菊奴(芦川いづみ)を含め3人いた。ところが、貫太は当地を取り仕切る碇川一家と揉めることに。一方、付近では救生軍がビラを配っており……。

原作は西口克己『廓』【Amazon】。

現代人にとっては見慣れた資本主義の寓話だが、当時の人にとっては新鮮だったのかもしれない。行き過ぎた拝金主義は近代化の歪みであり、貫太が決意を固めるラストは『風と共に去りぬ』を思い出す。そして、廓が題材になっているのは売春防止法が関係しているのだろう。この法律は1956年に制定され、1958年に施行された。本作は必要悪としての売春に一石を投じている。

借金の形に廓に身売りして売春に従事する。これは人身売買であり、現代人なら誰が見ても良くないことだと判断するだろう。当時の廓はそういう場所だった。では、裸一貫の女が手っ取り早く金を稼ぐために売春に身を投じる。これは倫理的にありなのだろうか? 動機は生活費を稼ぐためだったり、ホストに貢ぐためだったり、人によって様々である。現代においては主流の稼ぎ方の一つだ。昔と違うのは自発的であることで、彼女たちは自己決定権を行使して売春している。廓と違っていつでも足抜けできるし、誰かに強制されたわけでもない。コンビニバイトや居酒屋バイトよりも割がいいからこの仕事を選んでいる。そういった職業選択の自由を邪魔する権利が他人にあるのだろうか? 廓の娼妓に救生軍がアプローチしたのは間違いなく正しい。借金の形で嫌々売春させられているのだから。では、現代の風俗嬢にフェミニスト団体がアプローチするのは正しいことなのか? 好きでやっているのだから余計なお世話ではないのか? 救生軍とフェミニスト団体に共通しているのはキリスト教の倫理観に基づいているところで、前者はメソジスト教会、後者は矯風会の流れを汲んでいる。両者には世界を浄化したいという手前勝手な思惑がある。しかし、そもそも人間の倫理・道徳は宗教から離れた場所に存在するのであり、神を持ち出して人の行動を縛ろうとするのは間違っている。フェミニストはよくパターナリズムを批判するが、他人の自己決定権を否定することこそパターナリズムだろう。自分の道は自分で決める。自己決定権を尊重することが戦後民主主義社会の正しいあり方なのである。

経営者にサイコパスが多いとはよく言われることで、ご多分に漏れず貫太にもその傾向がある。彼は不幸な娘を踏み台にすることに躊躇いがない。娼妓のことを人間ではなく道具だと思っている。そのことを象徴しているのが菊奴が姿を消したときのセリフだ。貫太は「消えたのは女やない、金や」と述べている。他にも娼妓の弟が姉を取り返しにきた際もにべもない態度だった。資本主義社会において資本家は労働者を気遣ったりしない。気遣ったとしても明日の労働に必要だから気遣う、正確には気遣うふりをする。金儲けの道具に必要以上の温情をかけたら飯の食い上げなのだ。資本家は搾取する側であり、労働者は搾取される側である。その壁は分厚い。貫太と娼妓の関係には資本主義のすべてが詰まっている。

日本は女郎がいないと成り立たない。劇中の警察官はそう認めている。この辺、現代の風俗嬢と同じではなかろうか。綺麗すぎる水に魚は棲めない。世界の浄化が本当に正しいことなのか疑問をおぼえる。