海外文学読書録

書評と感想

今村昌平『豚と軍艦』(1961/日)

豚と軍艦

豚と軍艦

  • 長門裕之
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★★★★

横須賀。米兵向けのヤミ娼館を経営していた日森組だったが、警察に踏み込まれてご破算になる。一家は米軍基地から出る残飯に目をつけ、豚の飼育をすることになった。下っ端の欣太(長門裕之)が飼育係を命じられる。欣太には春子(吉村実子)という恋人がいた。一方、古株のやくざが養豚場にタカりに来たため、兄貴の鉄次(丹波哲郎)が殺害して海に沈める。鉄次は胃に持病があり……。

戦後日本はアメリカ抜きでは語れない、ということが分かった。やくざが娼館を建ててシノギをするのも米兵向けだし、それが駄目となったら今度は米軍基地から残飯を輸入する。男が稼ぐにはアメリカと取引する必要があった。一方、女も米兵相手にパンパンして逞しく稼いでいる。彼女たちの目的はオンリーになること。米兵と愛人になり、結婚まで漕ぎ着けたら足抜けすることができる。アメリカには金と物資が豊富にあるわけで、日本人が経済活動するにはそこに寄生するしかない。政治的にも経済的にも戦後日本はアメリカ抜きでは語れないのだった。

諸々の事情から豚の飼育が瓦解する。互いを食い物にするという意味ではやくざも豚と変わらず、途中からはいかにして高値で売り抜けるか奔走することになる。本作に出てくる豚は日本人のメタファーなのだろう。アメリカの残飯で食わせてもらい、やくざに飼育される。ところが、やくざの仲間割れのせいでどこかに売り飛ばされることになった。終盤では欣太の反乱によって豚があちこちに氾濫する。濁流のように道を突進し、やくざたちを押し潰す。一連のシークエンスは物量による迫力があって、日本人のバイタリティを体現したようなすごみがあった。突進する豚、豚、豚。資本主義国家として成熟した現代ではこういう映像にリアリティはない。戦後だからこそリアリティがあるのだ。昔の日本人は豚のように何でも食って逞しく生きていた。デジタル社会に生きる我々には想像もつかない世界である。

下っ端の欣太が代人として親分の罪を被るよう強いられる。やくざあるあるだ。2~3年服役したら幹部になれるとか、ここで男になるんだとか、先輩やくざが甘い言葉で誘惑してくる。当然、そんな虫のいい話はないだろう。先輩を差し置いて幹部なんてあり得ない。そして、兄貴の鉄次は胃を悪くしていたが、ひょんな勘違いから余命3日だと思い込む。人生を悲観した彼は殺し屋に自分を殺すよう依頼するのだった。このプロットで面白いのは、勘違いだと分かった直後に殺し屋が現れるところだろう。鉄次の前に現れた殺し屋が懐に手を入れる。ここで鉄次も観客も拳銃を取り出すものだと思って身構える。鉄次はいち早く逃げてしまった。ところが、殺し屋が懐から出したのは札束である。殺し屋は金を返しにきたのだ。このシーンはわずか一瞬とはえ、こちらの先入観を逆手に取った展開で面白い。

60年安保の翌年に本作が公開されたフットワークの軽さは特筆に値する。昔の映画は安くて早くてそこそこ美味いファストフードだった。正直、大作よりもこういう映画のほうが見ていて気が楽だ。ファストフードにはファストフードの良さがある。