海外文学読書録

書評と感想

樋口真嗣『シン・ウルトラマン』(2022/日)

★★★★

日本では「禍威獣(カイジュウ)」という巨大生物が出現して各所を荒らし回っていた。政府は禍特対(カトクタイ)を設立して対策に当たる。ある日、何番目かの禍威獣が現れたとき、謎の巨人がそれを倒して飛び去った。禍特対はその巨人を「ウルトラマン」と名付ける。一方、禍特対では作戦立案担当官の神永新二(斎藤工)と分析官の浅見弘子(長澤まさみ)がバディになり……。

シニシズムに侵された現代において、ヒューマニズムのドラマを展開したところが新鮮だった。昭和では当たり前だった価値観が令和では当たり前でなくなっている。だから一周回って新しい。中途半端に現実分かってますよ感を出している映画よりは、こういう理想主義的な映画のほうがヒーローものとしてふさわしいだろう。昭和から令和へ。全体的に温故知新という印象だった。

本作では二つのグローバル化が描かれている。一つは国際社会の中の日本。禍威獣もウルトラマンも日本国内にしか出没しないが、日本政府は世界の目を意識している。ウルトラマンの軍事利用について国際間の綱引きが示唆されているのだ。そして、もう一つは宇宙の中の地球。外星人は人類よりも高度な文明を育んでおり、あの手この手で地球に介入してくる。その際、外星人同士は星間協定を結んでいた。彼らは人類の処遇を巡って高次の交渉を行っている。この辺は近代日本の国際情勢を連想させて興味深い。江戸時代の黒船来航以来、欧米列強は日本に外圧をかけ続けてきた。本作の外星人はそのメタファーになっている。要は自分たちより優れた存在が現れたとき、我々はどう対処すべきかという話だ。これは外圧に苦しんだ日本人だからこそ刺さる話である。

本作では人類礼賛の根拠として自己犠牲を挙げている。ウルトラマンはそれに惹かれて人類の味方をすることになった。外星人から見たら人類は無力な雛鳥である。しかし、それは人類の善性を意味しない。人類は環境を汚染したり同族で戦争したり極めて野蛮だ。しかしそれでもなお、ウルトラマンは自己犠牲という一点を評価して人類の絶滅を防ごうとしている。人類の数少ない善性に希望を見出しているところ、そこが本作の理想主義たる所以である。

映像は原作に比べると格段に良くなっているが、現代のアメコミヒーロー映画に比べるとだいぶしょぼい。良くも悪くも日本映画という感じだ。特に終盤、ゼットンとの戦いはアニメで表現したほうがふさわしい内容で、CGで表現するには無理があった。舞台が大掛かりになるとどうしてもチープになってしまう。日本において実写が衰退し、アニメが隆盛した理由が分かった。アニメなら少ないコストで多彩な表現ができる。日本は今後もアニメで勝負したほうがいいのかもしれない。

本作は長澤まさみで遊んでいるところがいい。巨人になって歩いているのをローアングルで撮っているところ、風呂に入ってない体臭を男に嗅がせているところ、要所要所で自分のケツを叩くところ。どれもフェティシズムに溢れている。僕にはほとんどポルノに見えた。