海外文学読書録

書評と感想

アルベール・カミュ『ペスト』(1947)

★★★★

アルジェリアの港町オラン市。医師のリウーが鼠の死体を発見、間もなく市内にペストが蔓延した。町は閉鎖され、当局は対応に大わらわになる。そんななか、新聞記者のランベール、逃亡犯のコタール、よそ者のタルー、神父のパヌルーなどが、それぞれの思惑で活動する。

「どうしてわれわれと一緒にやってくださらないんです、コタールさん?」

相手は傷つけられた様子で立ち上り、山高帽を手にとった――

「そんなことは私の柄じゃありません」

それから、ことさらいどみかかるような調子で――

「それに、私には気持ちがいいんですからね、ペストのなかで暮すのが。だから、それを終らせようなんてことに手を出す理由は、私には見当らないんですよ」(pp.235-236)

この記事を書いている現在、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界的に流行しており、日本では本書がベストセラーになっている。ペストで苦しむオラン市と、現在の日本の状況が重なるというのだ。なるほど、確かに閉塞的な状況が似ているかもしれない。僕もミーハーなので、これを機会に読むことにした。

ペストを戦争と並ぶ不条理と位置づけているところが本作の特徴で、これは戦後間もない時期を舞台にしているからだろう。登場人物はみんな第二次世界大戦を経験している。ここは現在の日本とは大きく異なるところで、我々は70年以上戦争に出くわしていない。ところが、戦争に匹敵する大きな災厄には2度遭遇している。それは阪神淡路大震災東日本大震災だ。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とは言うけれど、被災者にとってこの2つの記憶はまだまだ鮮明だろう。天災は非現実的なものであり、やがて過ぎ去る悪夢だと考えがちである。しかし、実際は簡単に過ぎ去ったりしない。人々はしばらくの間、苦しい生活を強いられる。現在のコロナ禍は地域的だった震災が全国レベルに拡大したものであり、戦後の日本を襲った3番目の災厄と言える。

天災がある限り、何人も決して自由ではあり得ない。天災は、未来も、移動も、議論もすべて封じてしまう。新聞記者のランベールは、旅人感覚でオラン市に滞在していた。彼は自分さえ望めば町から出られると思っていた。ところが、医師のリヴーからそれはできないと宣告される。町を出たらペストが拡散される。あなたはもうこの町の住人になったのだと言われる。しかし、ランベールはそれを「理性の言葉」だと非難するのだった。そう、世の中には「理性の言葉」に従えない人間が一定数いる。それはコロナ禍における現代日本でも同様だ。そういう連中は自粛ムードにもかかわらず、不要不急の外出をしてはウイルスを撒き散らしている。そして、それがニュースになり、SNSで実名を暴かれてバッシングされている。こういうのって僕は自業自得だと思うのだけど、しかし、社会の建前として誹謗中傷はよくないことだとされている。片方には道義に反した者を懲らしめたいという処罰感情があり、もう片方には私刑をする権利は誰にもないという良識がある。今回のコロナ禍は、そういった理性と感情のせめぎ合いを容赦なく炙り出している。

逃亡犯のコタールは、ペストが蔓延する世界に自由を感じていた。というのも、社会がこれで混乱している限り、審理も逮捕も問題にならないからだ。市民全員が特赦を待っている受刑者の群れと化しており、自分もそこに紛れ込むことができる。彼にとって、不自由が逆に自由になっているのだ。悲しいことに、こういう心理状態は現代日本でも散見されている。コロナ禍によって格差社会が縮小されるかもしれない。金持ちも貧乏人も等しく命の危機に晒され、ガラガラポン下剋上ができるかもしれない。そこに開放感を見出している人がいる。期せずして、コロナ禍は負け犬たちに夢と希望を与えたのだった。

本作はキリスト教文化圏の話なので、当然のことながら「悪」の問題が出てくる。天災はすべて神から発せられる。他人を罰する「悪」は必要悪だが、子供が無惨に病死する「悪」はそうではない。災厄をもたらした神は、後者に対してどういう意味付けをしているのか。神父のパヌルーはそのことに思いを馳せている。日本人は名目上仏教徒が大半だけど、実際はほぼ全員が無宗教である。だから、コロナ禍でこういう神学的な問題は提起されない。災厄はあくまで自然によるものだと考えている。そこは洋の東西に横たわる価値観の違いとして興味深い。

タルーの父は次席検事で、人を死に追いやる仕事をしていた。タルーはそれに嫌気がさして政治運動に身を投じるも、今度は自分が父と同じ立場になってしまう。間接的に人の死に関与してしまう。それがタルーの抱える内なるペストであり、本作においてペストは悪のアナロジーとして作用している。これを現在のコロナ禍に適用するとどうなるだろう? コロナウイルスは我々が抱える内なる悪であり、医療で解決しても心の中で燻り続ける。いつ再燃してもおかしくない。人間は悪から逃れることはできないのだ。こういう考えは時代に合わない気がするけれど、しかし一方で、コロナ禍は人々の醜い部分(=悪)を明るみに出している。それだけでも収穫はあったと思う。