海外文学読書録

書評と感想

ルネ・ラルー『ファンタスティック・プラネット』(1973/仏=チェコスロバキア)

★★★

惑星イガム。この星はドラーグ族が支配していた。星には人間であるオム族も住んでいるが、彼らは体の大きさがドラーグ族よりも圧倒的に小さい。人間はペットにされたり駆除されたりしている。ある日、ドラーグ族の少女ティバが人間の赤ん坊を飼うことになった。赤ん坊はテールと名付けられる。

ドラーグ族を中心とした奇抜な世界観に惹かれたが、話が人間主体になってからはつまらなかった。未知の世界から既知の世界にスケールダウンしたところに拍子抜けしたのである。語り手がテールなので、大体は人間からドラーグ族を眺めるような視点になるのだが、そこから人間にフォーカスしてしまうのはちょっと違うなと思う。世界観で勝負する映画に分かりやすいストーリーなんていらないのではないか。

ドラーグ族は人間の我々からしたら宇宙人であって、宇宙人ならではのぶっ飛んだ生態系を持っている。肌は青く、目は赤く、髪の毛は生えてない。耳にはエラがついていて半魚人を彷彿とさせる。彼らはよく瞑想し、食事は雲から摂取していた。テクノロジーも発展していて、脳に直接知識を送る機械で学習することができる。何より特徴的なのがその大きさだ。人間の10倍ほどの巨大な体躯を誇っている。ドラーグ族は小さい人間を見下しており、彼らをペットにしたり駆除したりしていた。言ってれば人類の上位存在である。本作は人間が超越者に弄ばれるところに倒錯した面白さがある。

ドラーグ族が人間を虫けらだと思っているところがいい。バルサンみたいに毒ガスで燻り殺したり、掃除機で吸い取ったり、粘着ボールでコロコロ押し潰したりする。もっと単純な手段だと、圧倒的なフィジカルを生かして踏み潰したりもしている。一連の駆除はホロコーストを連想させるが、どちらかというとアリを駆除するような感覚に近い。人間が害虫に対してやってることとほとんど同じである。人間のような知的生命体をそう簡単に殺していいのかと思うが、ドラーグ族にそのような常識は通用しなかった。ドラーグ族にとって人間はモルモット。それも有害なモルモットだ。このように世界が強者と弱者に分断され、人間が後者に分類されるところに批評性を感じる。

作画についてはバンド・デシネのような絵柄で、漫画の絵をそのまま動かしている。アニメーションというよりはマンガ動画といった趣だ。デザインも含めて全てが西洋人のセンスに溢れている。それゆえ日本のアニメに慣れた我々には新鮮だ。21世紀の現在、日本のアニメが世界のスタンダードになった。しかし、一歩間違ったら本作のようなアニメがスタンダードになっていたかもしれない。日本人の僕にとって、本作は異端ゆえの面白さだった。

協調こそが互いを高め合うというオチだが、そこにたどり着くには暴力で思い知らせる必要がある。この辺、市民革命を経験したフランス人の思想が色濃く出ている。