海外文学読書録

書評と感想

蔵原惟繕『何か面白いことないか』(1963/日)

★★★

ダンサーの典子(浅丘ルリ子)は週刊誌記者の小池(武内享)と付き合っていたが、「何か面白いことないか」と退屈していた。そんな矢先、パイロットの早坂(石原裕次郎)が現れる。彼は喫茶店の灰皿を割ったり典子の服にコーヒーをかけたり、やりたいことをする青年だった。典子は遺産で引き継いだセスナを競りにかける。それを早坂が競り落とすも金がない。月賦で支払う代わりに生命保険を担保にする。

浅丘ルリ子の壮絶な情念とマスコミ批判を絡ませるあたりは『憎いあンちくしょう』の二番煎じという感じがする。

『憎いあンちくしょう』に比べると、マスコミ批判は一歩踏み込んで大衆批判にまで及んでいる。大衆は常々「何か面白いことないか」と口を開けて面白いことを待っている。そこに目をつけたのが週刊誌で、彼らは芸能人のゴシップや私人の奇行など面白いことを放り込んでくる。週刊誌は面白いことをより面白くするためなら事実を曲げることも厭わない。なぜなら大衆がそれを望んでいるから。大衆は平和な世の中に退屈しており、何でもいいから面白いことを欲しがっている。マスコミがでかい面をしているのも、我々大衆が彼らのゴシップ記事を楽しみにしているからだ。他人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、有名人が破滅するような記事ならなおいい。大衆にとっては他人の人生こそが最大の娯楽なのだ。これは現代人も同様である。SNSでは文春砲が定期的に話題になっているし、毎日のように私人が炎上している。また、インターネットの生配信では乞食みたいなおじさん・おばさんが見世物となり、我々のサディスティックな欲求を刺激してくる。芸能人が引退を余儀なくされたら(社会的に死んだら)最高だし、配信者が死体になって川べりに上がってきたら気持ちがいい*1。つまり、我々は己の抱える「死の欲動」を他人に代行してもらうことでカタルシスを得ているのだ。自分が死ぬわけにはいかない。なぜなら自分の命はかけがえのないものだから。だったら他人に死んでもらおう。そのための生贄をマスコミやインターネットは用意してくれる。

とはいえ、マスコミが早坂を死に追い込もうとするのはリアリティーがない。小池は早坂に私怨を抱いているから仕方がないにしても、他のジャーナリストはそこまでしないだろう。また、大衆も早坂の死を望んでいてぎょっとするが、どんな集まりでも大抵は良識のある人が反対の声を上げるのではないか。そこはマスコミ批判のための誇張表現なのかもしれないし、60年代のモラルがそこまで崩壊していたのかもしれない。ともあれ、現代はSNSによって大衆の欲望が可視化されたが、それで分かったのは意外と良識派が多いことだった。実際に自殺宣言する者が現れたら多くの人間が止めに入るだろう。大衆の大多数は人命を軽視していないし、人命を見世物にすることも許していない。そういうことが分かっているので本作が露悪的に感じる。

典子は最初から最後までプッツン女だったが、早坂も妙な信念によって自縄自縛になっているので大概である。お似合いのカップルではなかろうか。あんたら狂ってるよ、と言いたい。