★★★
地下鉄で切符切りの仕事をしている男(内田裕也)は単調な生活に倦んでいた。仕事帰り、公園のトイレでレイプされそうになっていた女・じゅん(MIE)を助ける。また、みく(浅岡朱美)という女には水のないプールに連れて行かれる。男はクロロホルムで女を眠らせてレイプする手口を思いつき、喫茶店の店員・ねりか(中村れい子)にそれをする。
ここまでストレートなレイプファンタジーは久しぶりに見た。女がレイプを待ち望んでいるなんて男の妄想にしか思えないが、当時はこれが挑戦的だったのだろう。ポルノ映画で当たり前になっている表現をメジャーでやると問題作になる。コードの違いによる異化効果みたいなものは間違いなくあって、80年代は開放的だと感心した。たとえるなら、魔法少女ものにおける『魔法少女まどか☆マギカ』みたいな感じだ。ある場所ではありふれた表現だったものが、別の場所では革新的に見える。斬新な表現(と世間が思っているもの)は常にエロの方面からやって来ることが分かった。
レイプの本質は女体にある。女体に宿っている人格ではない。クロロホルムで眠らされた女はまるで意思のないオナホールだ。対話もなければ反応もない。男は女体を愛撫した後、一物を突っ込んでせっせと行為に励んでいる。これのいったい何が楽しいのだろう? ただ穴を借りてオナニーしているだけではないか。どちらかというと、性欲の解消というよりは『眠れる美女』【Amazon】の性倒錯に近い。実際、男は儀式めいたことをしていて、レイプした女のために食事を用意したり現場を装飾したりしている。挙句の果てにはカメラを買って女性器の撮影まで始めた。性癖とはよく言ったもので、人間の性欲のあり様にはそれぞれ癖がある。こっそり致すだけで満足する男は少数だ。男の執り行う儀式にはサイコパスじみたものが見られて興味深い。人間の根源的な欲求はみなフェティシズムで繋がっている。人間は己の抱える癖から逃れることはできない。
レイプの欠点は体では繋がれても心では繋がれないところだ。自分をレイプした男に好意を持つ女なんてまずいない。ところが、本作はレイプファンタジーによってその常識を覆した。男はねりかをクロロホルムで眠らせてこっそりレイプする。翌朝、それと察したねりかは「サンタクロースが来たみたい」と独りごちる。ねりかにとって寝ている間に犯されたことはロマンティックな出来事なのだ。この思考回路は意味不明だが、レイプファンタジーとは男の妄想である。ここでは男にとって都合のいい女をねりかが演じている。かくして強姦と和姦の境界が曖昧になり、男は心と体でねりかと繋がることができた。この捻じくれた交流が本作の肝だろう。けしからん、実にけしからん。フェミニストの我々からすれば噴飯ものの映画である。
男にとってレイプした女が「俺の女」になるところが面白かった。ねりかが彼氏(飯島大介)とデートしているところを尾行し、映画館で彼氏を呼び出して殴りつけている。そして、男の狂気が一周回って既成事実になっている。本作を見てレイプファンタジーのすごみを味わった。