海外文学読書録

書評と感想

ジョン・シュレシンジャー『真夜中のカーボーイ』(1969/米)

★★★★

カウボーイの格好をしたジョー(ジョン・ヴォイト)がテキサスからニューヨークにやってくる。彼は自身の性的魅力で女を引っ掛け、女から金を得ることで生活するつもりだった。ところが、その目論見も上手くいかない。そんななか、ジョーはラッツォ(ダスティン・ホフマン)という小男と出会う。最初は彼に騙されるが、後に行動を共にするようになり……。

若い頃はアメリカン・ニューシネマこそ至高だと思っていたが、時を経ていくうちにその考えも変わってしまった。思うに、負け犬の悲劇は人生経験の少ない若者が自分と重ねるから面白いのであって、人生の酸いも甘いも知ったおじさんには響かないのではないか。それどころか、一種の様式美に見えてしまう。

カウボーイとは何かといったら、やはり強い男の象徴だろう。ジョン・ウェインだってクリント・イーストウッドだって、西部劇でそういう役を演じている。ところが、現代のカウボーイはただのファッションに過ぎなかった。ジョーは本物のカウボーイではなく、カウボーイの扮装をした南部の田舎者である。イケメンで体を鍛えているものの、カウボーイらしい強さは見られない。ニューヨークでは様々な人に騙されている。彼には大都会を生き抜く知恵はなかった。南部に嫌気がさして出てきたのに、女をカモにするという目標が果たせない。

面白いのは、ジョーの過去がフラッシュバックで挿入されるところだ。どうやら地元で恋人がレイプされた挙げ句、自分も男にケツを掘られたらしい。ヘテロ男性にとって男にケツを掘られることほど屈辱的なものはない。そして、この経験が後に不能へと発展し、女からゲイ疑惑を突きつけられることになる。カウボーイの扮装は強い男への憧れであるが、同時にそれが性的指向にもなってしまった。銃のないカウボーイは男性性の欠如したオカマである。本作はカウボーイのパブリックイメージを使って男の弱さを炙り出したところが面白い。

ジョーが過去のフラッシュバックに苦しめられているのに対し、ラッツォは来るべきマイアミの夢を見ている。ラッツォもジョーと同様地元に嫌気がさしていた。彼はマイアミに行きたがっている。想像上のマイアミは天国の似姿だった。ここで注目すべきはラッツォに健康不安があることで、日に日に持病の肺病が悪化している。それは「死」を予感させるほど酷かった。にもかかわらず、ラッツォは未来を夢見ている。ここから脱出すれば人生が好転するに違いない。ジョーもラッツォも別天地に希望を抱いているところが共通していて、アメリカン・ドリームの残酷さを思い知らされる。

ジョーとラッツォが紛れ込んだパーティーサイケデリックな雰囲気をモンタージュで表現しているところが印象的だった。これはジョーが見ていたフラッシュバックの応用のようで、矢継ぎ早に繰り出されるショットの連続には酩酊感がある。本作は意外と表現手法が凝っていた。