海外文学読書録

書評と感想

ヴィットリオ・デ・シーカ『ふたりの女』(1960/伊=仏)

★★★

第二次世界大戦中のローマ。シングルマザーのチェジーラ(ソフィア・ローレン)が娘ロゼッタ(エレオノーラ・ブラウン)と故郷に疎開する。そこにはインテリ風の青年ミケーレ(ジャン=ポール・ベルモンド)がいた。故郷の村はドイツ軍に占領されていたが、敗色は濃厚で近くまで連合軍が迫っている。ミケーレは敗残のドイツ兵に道案内するよう強制されるが……。

原作はアルベルト・モラヴィアの同名小説【Amazon】。

歴史は勝者によって書かれたものが正史になるが、その裏には敗者による歴史も存在しており、本作はそこをすくい上げている。第二次世界大戦の場合、連合国が正義で枢軸国が悪というのが一般的な見方だ。大雑把に見れば確かにその通りだろう。ヒトラーやムッソリーニに大義がないことは明白だ。では、細かく見るとどうか。たとえば、民間人に対する戦争犯罪。教科書では枢軸国の戦争犯罪ばかり取り沙汰されるが、実は連合国も民間人に対して戦争犯罪を行っている。前者の犯罪は裁判できっちり裁かれた。しかし、後者の犯罪はお咎めなしである。いつの時代も敗者の立場は弱く、勝者の理不尽な仕打ちを前に泣き寝入りするしかない。連合国は相対的には正義の側であるが、決して無謬ではなかった。敗者による歴史はそのことを明らかにする。

本作では女性が犯される性として描かれていて、そこは旧来的でもあるし現実的でもある。ローマでチェジーラは夫の友人ジョヴァンニ(ラフ・ヴァローネ)に犯された。チェジーラのほうにも恋愛感情があったとはいえ、その場で性的合意を得ていない。現代人からするとかなり強引に見える。たった一人の男でも力づく迫られたら押し返すことができないのだ。当然、終盤のレイプはこれを踏まえている。女があれだけの人数に襲われたら万事休すだ。相手は男であり、軍人であり、群れである。女の細腕ではどうにもならない(男でもどうにもならない)。戦時になると女は性欲のはけ口にされるから大変だ。秩序が崩壊した世界ではオスの動物性が剥き出しになる。戦争とは秩序を破壊する行為であり、弱者はそれによって庇護を失い蹂躙されてしまう。戦争状態に入ったら平和な日常は送れない。暴力が雨あられと降りかかってくるから警戒する必要がある。そのことを本作は突きつけてくる。

戦争という大きな背景の中に疎開生活があり、そこで青年ミケーレとの交流が描かれる。ミケーレを演じてるのはジャン=ポール・ベルモンド。これがまた線の細いインテリ青年だったので驚いた。眼鏡をかけて服装も整っていて意外にもよく似合っている。ミケーレはファシストを憎む平和主義者であるが、チェジーラからは「この時代では役立たず」と評されている。それくらいひ弱なのだ。インテリの彼は平時だったらそれなりの地位を得ただろう。しかし、戦時だとそうはいかない。僕もこのタイプの人材だからだいぶ危機感を持った。僕みたいなもやしは戦争になったら真っ先に殺されるだろう。だからなるべく戦争になってほしくない。ここ数年東アジア情勢はきな臭いが、何事もないまま逃げ切れるよう願っている。