海外文学読書録

書評と感想

藤田敏八『八月の濡れた砂』(1971/日)

★★★★

高校生の西本清(広瀬昌助)と高校中退の野上健一郎(村野武範)は友人である。ある日、清がバイクで海辺を走っていると、女が車から放り出される。彼女の名前は三原早苗(テレサ野田)。男たちに集団レイプされたのだった。清は早苗を介抱する。その後、早苗の姉・真紀(藤田みどり)が清の元にやって来て一緒にドライブする。色々あって清は真紀をレイプしようとするのだった。

『狂った果実』の70年代版。太陽族の時代からだいぶ遠いところまで来た。どちらもやっていることは大差がないが、ファッションがまったく違う。太陽族が短髪の慎太郎カットだったのに対し、本作の若者は長髪である。また、太陽族はとにかく実家が太かった。経済的に不自由のない若者の放蕩生活といった趣である。それに比べると本作の若者は庶民的だ。高度経済成長によって人々の生活が均一化された。車は買えない代わりにバイクは買えるという若者が増えたし、クラブに行く金がない代わりに居酒屋で飲むことはできるという若者が増えた。それがこの光景なのだろう。彼らは不良少年に分類できるが、後年ほど見た目にけばけばしさはない。そこらの少年と区別がつかないくらいである。彼らは狭い交友関係で閉塞した人生を送っている。しらけ世代(ポスト団塊の世代)の青春とはこういうものだったのかと感じ入る。

本作は一貫してレイプで成り立っている映画なので見る人を選ぶかもしれない。清も健一郎も当たり前のようにレイプしているし、ガリ勉の修司(中沢治夫)でさえも力づくで女をものにしようとしている。その振る舞いは極めて動物的だ。これを書いている現在、あるお笑い芸人が女性関係で炎上しているが、その焦点は性的同意の有無にあった。性的同意なしのセックス、すなわちレイプはいつの時代もショッキングなのである。本作は敢えてそのショッキングな行為を中心に据えた。まるで若者の鬱屈はそれでしか晴らせないと言いたげだし、観客への大胆な挑発にも見える。あるいは単に当時はレイプが流行っていたのかもしれない。色々と複合的な要因があるのだろう。本作はレイプで始まってレイプで終わる。そこに拘っているところが刺激的だった。

そして、もうひとつ一貫しているのが家族以外の大人に敵対的なところだ。健一郎は教師を舐め腐っているし、母親の彼氏(渡辺文雄)を毛嫌いしている。また、早苗の家でこそ泥を捕まえたときはみんなで慰みものにしていた。たとえしらけ世代でも若者である限り大人とは相容れない。彼らは大人の作った社会に寄生する反面、当の大人には反発している。終盤、健一郎は大人のヨットを奪って仲間と沖に出る。それは大人を出し抜いたようでその実より閉塞的な世界に閉じ込められることを意味していた。だから早苗は猟銃でキャビンに穴を開けたのだろう。大人のいる世界はろくでもないが、大人のいない世界はもっとろくでもない。穴の開いたヨットは行き先も定まらず海を彷徨うことになる。健一郎たちは自由に振る舞っているようでその自由を持て余していた。いつの時代も若者は自由を求めるが、社会の成員である以上本当の自由は得られない。そして、海上のヨットのように限定的な自由を得るとろくでもないことをする。現代の若者は猟銃を手に入れても「父殺し」ができないし、レイプの現場を前にしても加害者を射殺できない。そういうやりきれなさが心に残る。

というわけで、本作はエモーショナルな青春映画だった。日活アクション映画は最後に大輪の花を咲かせたのだから幸福である。