海外文学読書録

書評と感想

クエンティン・タランティーノ『キル・ビル Vol.1』(2003/米)

★★★

4年前、結婚式のリハーサル中に仲間に暴行されたザ・ブライド(ユマ・サーマン)。彼女は世界最強の暗殺集団に所属していた。目覚めると、妊娠していた子供は失われている。彼女は自分を暴行した4人と組織のボス・ビル(デビッド・キャラダイン)に復讐する。Vol.1ではオーレン・イシイ(ルーシー・リュー)とヴァニータ・グリーン(ヴィヴィカ・A・フォックス)。

70年代の日本のやくざ映画をリメイクしたような映画。70年代の映画は古典として楽しむからいいのであって、それを現代に蘇らせると気恥ずかしい映画になることが分かった。しかも、外国人のフィルターが入っているからどうにもへんてこだ。むしろ、その立場を利用してB級感を過剰に演出している節さえある。いわゆる勘違い日本趣味を楽しむタイプの映画だろう。こういったオリエンタリズムは何かと批判されがちだが、当の我々は苦笑いしながら受容しているのでPCが入り込んでほしくない。作り手と受け手の共犯関係が成立しているし、むしろPCとは無縁だから面白いまである。

我々がオリエンタリズムに屈服してしまうのは、黄色人種の文化より白人の文化のほうが上だと認めているからだ。我々は白人の文学が好きだし、白人の映画が好きだし、白人の音楽が好きである。我々が白人文化に勝てているのは漫画やアニメくらいだ。近代以降、ハイカルチャーとされているものはすべて白人が独占している。黄色人種サブカルチャーにぎりぎり滑り込んでいるに過ぎない。みんな違ってみんないい、というのはPCに毒された幻想だ。白人の文化は黄色人種の文化に優越している。近代化で先を越され、植民地に落とされ、戦争で負けた我々は白人に対して劣等感を抱いている。黄色人種は文化でも文明でも白人には及ばない。だから日本通みたいな白人が来ると喜んで尻尾を振ってしまうし、オリエンタリズムとして消費されているのにほっこり笑顔を向けてしまう。それは本作の勘違い日本趣味に対しても同様だ。白人が我々の文化をリスペクトしてくれている。それだけで絶頂に達してしまう。

本作は残酷描写が目白押しなところがいい。日本刀で腕や首を切断して激しく血が吹き出る。こういうのはもう映画でしか見れない(『エルフェンリート』は遠い昔のことである)。残酷描写が活かされているのは一対一のアクションよりも一対多数のアクションで、終盤の殺陣は絶品だった。敵は人数で圧倒しているから明らかに無理ゲーなのだが、そこを切った張ったの大立ち回りをしている。銃を使ったほうがいいのに日本刀を使っているのは様式美だろう。やくざ映画にとって重要なのは土俗的な要素である。一方、ここまで残酷な描写は本家やくざ映画にもなかったはずだ。そこは現代劇の面白さで、阿鼻叫喚の地獄絵図はタランティーノの持ち味である。一仕事終わった後の血溜まり、のたうち回る悪党。我々はそれを見て猛烈なカタルシスを味わっている。

『シン・仮面ライダー』がつまらなかったように、監督の「好き」を詰め込んだ映画はだいたいつまらない。本作もつまらないことはつまらないのだが、それでも評価してしまうのは過剰なオリエンタリズムと過剰な残酷描写ゆえだ。本作は過剰さを愛でる映画なので、実は万人向きではないような気がする。とにかく癖が強い。内心ではつまらないと思いつつ、オリエンタリズムと残酷描写に屈してしまった。

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