海外文学読書録

書評と感想

ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』(1977/米)

★★★★

女優マートル(ジーナ・ローランズ)は舞台の人気スター。彼女が楽屋口から出るとファンが殺到してくる。その中にナンシーという17歳の少女がいた。ナンシーはどこか様子がおかしい。マートルが車で立ち去ろうとすると、ナンシーが交通事故で死んでしまう。以降、マートルは調子を崩すようになった。舞台監督のマニー(ベン・ギャザラ)がやきもきするのに対し、共演者のモーリス(ジョン・カサヴェテス)は冷たい態度でいる。

終わってみれば呪いを解く物語だった。事故をきっかけにスランプに陥った女優がどん底から再生する。劇中で「この芝居に足りないのは?」と聞かれたマートルが「希望」と答えるが、これは外枠(観客)に向けたメッセージだろう。監督のジョン・カサヴェテスは映画には希望が必要だと考えている節がある。最近観た『こわれゆく女』も希望のある終わり方だった。インディペンデントの監督でありながらも、考え方がメインストリームのアメリカ人であるところが面白い。同時期に流行ったアメリカン・ニューシネマなど眼中にないといった感じである。ともあれ、本作はジーナ・ローランズが迫真の演技をしていて、苦しみにもがく様には壮絶さがあった。

マートルは近日開演予定の『第ニの女』に向けて稽古しているが、その役柄が気に入らない様子。劇作家のサラ(ジョーン・ブロンデル)と膝を詰めて話し合いをしている。どうやらマートルにとってその役は年増に感じるようだ。サラの年齢は65歳。その老いが役に反映されているのだとマートルは指摘している。しかし、サラがマートルに年齢を尋ねても彼女は答えようとしない。マートルはマートルで自分の老いを認めたくなかった。そして、マートルの前に事故で死んだナンシーの幻影が現れる。ナンシーは17歳。それは若きマートルの分身でもあった。マートルは老いと若さの間に挟まれている。自分はもう若くないと認めるべきか。あるいはまだまだ若いと突っ張るべきか。本番当日に泥酔して現れたマートルは、その2つを舞台の上で見事に止揚させる。彼女が復活する様子は迫力があった。

本作は俳優が俳優を演じる面白さがあって、舞台の上と普段の生活で演技が違うところが目を引く。この演じ分けはけっこう高度なのではなかろうか。普段はクールなモーリスも舞台では弾けている。また、満身創痍で本番を迎えたマートルも舞台では堂々としていた。舞台の演技は総じてオーバーアクションである。もっと言えば躁病的である。重要なのは分かりやすさであり、時にアドリブを効かせて笑いを取っている(まるでスタンダップコメディみたいだ)。舞台俳優の特徴は観客から直にフィードバックを受けるところだ。俳優は観客の視線を浴びて生き生きと演技している。舞台の上と普段の生活。オン・オフのギャップが本作の焦点になっており、結果として演技のための映画になっている。

大相撲の世界では「怪我は土俵で治す」と言われているが、俳優の世界では「スランプは舞台で治す」ものなのかもしれない。一度の成功体験がすべてをチャラにする。そういう意味で本作は最高のハッピーエンドだった。