海外文学読書録

書評と感想

ジョン・カサヴェテス『フェイシズ』(1968/米)

★★★★

長年連れ添ったリチャード(ジョン・マーレイ)とマリア(リン・カーリン)だったが、突然リチャードが離婚を言い渡して別々の夜を過ごすことになる。リチャードは高級娼婦ジェニー(ジーナ・ローランズ)と、マリアは青年チェット(シーモア・カッセル)と過ごすが……。

『アメリカの影』と比べてもこちらのほうがよっぽど即興っぽい。延々と雑談が続いて収拾がつかない感じがすごいし、一流の俳優がやらないようなやけくそ気味の演技も目を引く。こういうのって確かに商業映画では無理そう。アニメでも本職の声優より畑違いの俳優を起用したほうがリアリティが増すが、本作の荒々しい演技はそれ以上の迫力があった。

中年の危機というのは入れ物で、本質は「老い」を捉えることにあるのではないか。リチャードもマリアもそれぞれ友人たちとハイテンションで騒いでいる。そのはしゃぎぶりはおよそ中高年のものではない。まるで無鉄砲な大学生のようだ。とにかくバカ話をしてははしゃぎまくる。ぎゃーぎゃー喚きまくる。彼らに中産階級らしい慎みは微塵もなかった。いい歳したジジババが年甲斐もなく騒いでいる。

この様子がとてもグロテスクで、自らを覆う「老い」から逃避しているように見える。自分はまだまだ若いのだから騒ぐ権利がある。若い女を抱く資格があるし、若い男にキスする資格がある。そう言いたげなやけくそ気味の騒ぎ方。言ってみれば、遅れてきた青春を謳歌しているのだ。年齢相応に枯れるのを嫌がる気持ちは痛いほど分かる。だが、それを絵面で見せられるとなかなかきつい。大学生みたいな騒ぎ方が様になるのは若い連中だけなので、ジジババはいい加減落ち着いたほうがいいと思う。これは自分にも刺さってつらいことだけど。人間にはライフステージに応じた振る舞い方というものがある。

これで思い出したのがキャバクラだ。日本のキャバクラは若くありたい中高年にとっての福祉なのだろう。こちらがおじさんでも若い女の子が嫌な顔ひとつせず話を聞いてくれる。常連になると擬似的な親密圏も形成される。それは金を媒介にした虚しい関係ではあるけれど、一時的に「老い」から遠ざかれるのだから安いものだ。中高年が若さを取り戻すには若い子と触れ合うしかない。若い女の養豚場としてキャバクラには価値がある。

終盤では帰宅したリチャードがマリアの不倫に気づいて激昂する。しかし、これは都合が良すぎだ。というのも、自分もさっきまで若い女と一緒にいたのだから。リチャードがマリアに見出しているのは自分自身である。しかし、そのことにリチャードは気づいていない。自分のことを被害者のポジションに置いて屈辱を味わっている。

つまり、本作の中高年たちは自分のことが見えてないのだ。老いた顔をして騒ぐことのみっともなさが見えてないし、自分が加害者であることも見えてない。観客はそのグロテスクさをまざまざと見せつけられている。ふと思ったが、本作を洗練させて商業ベースに乗せたらウディ・アレンになるのではないか。荒々しいながらも人間の本質を捉えていて一種の文学性を備えている。