★★★
ヘルシンキ。トルコの貨物船に密航したカーリド(シェルワン・ハジ)が港にたどり着く。彼はシリア人で内戦中のアレッポから逃げてきた。警察署に行って難民申請する。一方、セールスマンのヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)は妻を捨てて家を出た。彼はカジノで大金をゲットし、居抜きでレストランを購入する。
シリアの難民問題を扱っている。今まで国際問題については劇中でテレビニュースを流すくらいだったが(『マッチ工場の少女』の天安門事件など)、今回は真っ向から題材にしている。EUの排外主義について思うところがあるのだろう。作風は変わってないものの、題材が変わっていて驚いた。
とはいえ、難民も労働者階級のような負け犬であることに変わりない。経済的に貧しく、社会に居場所がないところは同じである。だからアキ・カウリスマキ作品の主人公として違和感がない。カーリドの存在はグローバル化の産物と言える。
難民認定の基準はフィンランドも厳しいみたいで、カーリドも却下されている。折しもテレビではアレッポ爆撃のニュースが放送されていた。強制送還したら命の危険があるのに無慈悲だとは思うが、しかし、これは日本だって同じことをしている。というのも、日本の難民認定率は0.3%と世界でも類を見ないほど低いのだ(ちなみに、アメリカの認定率は25%、ドイツの認定率は16%である)。このことに我々は疑問を抱いていない。確かに難民は可哀想だが我が国では面倒を見られないよ、で済ましている。
日本も僕が子供の頃は均質的な社会で住みやすかった。それが大人になったら多様性を重視するようになって住みづらくなった。LGBTに配慮しないといけなくなったし、発達障害に配慮しないといけなくなった。治安は良くなったものの、グローバルスタンダードの導入によって息苦しい社会になった。そういう生活実感があるから難民問題と上手く向き合えない。もし認定率を上げたら多様性が進んで日本が日本でなくなってしまうと懸念する。同じことはEUの人たちも思っているのではないか。だからネオナチが横行しているのだし、排外主義の政党も躍進している。
これも一種のPC疲れなのだろう。多様性は確かに正しい。しかし、それを推し進めると自分のところにしわ寄せが来る。誰かを助けるということは、そのぶん自分に負担がのしかかるということなのだ。ただでさえ生活するだけで精一杯なのに、また余計な気苦労を背負うことになる。我々はこれ以上他人に配慮する余裕がない。「正しさ」に従えば従うほど幸福度が下がっていく。このジレンマをどう解消すべきなのか。僕には難民の気持ちも分かるし、ネオナチの気持ちも分かる。だから答えが出せない。
日本は経済的に貧しくなった。それと同時に日本人の心も貧しくなった。つまり、そういうことなのだろう。現にSNSでは老人ヘイトや女性差別が猖獗を極めている。誰も彼もがフラストレーションを抱えている国。それが今の日本なのである。