海外文学読書録

書評と感想

アンナ・バーンズ『ミルクマン』(2018)

★★★★

18歳の「私」の前にミルクマンという中年男が現れる。「私」の所属するコミュニティは体制派である「海の向こう側」と揉めており、反体制派が爆弾テロなどで暗躍していた。「私」と彼氏のメイビーBFは極力中立でいようとしていたが、メイビーBFが体制派と誤解されそうな車のパーツを手に入れてしまう。

「ちょっと待って」と私。「あの男がプラスチック爆弾を仕掛けるのがよくて、私が公の場所で『ジェイン・エア』を読むのは悪いって言うの?」「公の場所で読むなって言ってるんじゃない。歩きながら本を読むなって言ってるの。みんな、それが気に入らないんだから」みんな、というのはここのコミュニティの人たちのことだ。(pp.214-215)

ブッカー賞受賞作。

どちらかというと、ストーリーよりも「語り」の魅力を重視していて、小説の本質は言葉だと痛感した。本作が匿名性に満ちた寓意的な話になっているのも、語りによって虚構の濃度をコントロールしているからである。現実からやや浮いた世界像が、言葉によって構築され、決定づけられているのだ。小説を読む際、初心者はストーリーの面白さに目を奪われがちである。けれども、本当に面白いのはそんなところではなく、小説の世界がいかにして組み立てられているか、その建築材というべき言葉そのものに醍醐味がある。言葉の連なりが世界の肌触りとなって、読み手に何とも言えない快楽をもたらすのだ。小説とは言葉であり、世界は言葉でできている。今回はそのことを自覚させる読書だった。

登場人物に固有名がないところ、また彼らの容姿について言及がないところ、さらに町並みを微塵も描写していないところなど、これらの省略は意図的だろう。諸々の断片から北アイルランドをモデルにしていると察せられるけれど、それでも敢えて特色のない叙述に徹し、平板な世界像を作り上げている。そして、その世界で繰り広げられる出来事がなかなか奇妙だ。たとえば、「私」は歩きながら本を読む奇癖を有しており、そのことがコミュニティ内で問題視されている。かと思えば、毒盛りガールという三十路の女が暗躍している。さらに、キーパーソンとなるミルクマンはストーカーで、「私」の職場・家族・週末の行動などを把握している。背景には体制派と反体制派の争いがあり、何人も人が死んでいるのだった。この世界像は漂白されたディストピアと言うべきもので、血の匂いを感じさせないところがかえって恐ろしい。

歩きながら本を読む「私」をコミュニティが問題視しているのは、そうすることでコミュニティの情報に疎くなるからだ。コミュニティはコミュニティの一員として周囲に順応することを要請している。しかし、「私」はコミュニティの情報なんて知らないままでいたい。言い換えれば、しがらみから自由でありたい。ところが、コミュニティはそんな「私」を変人だと噂している。この保守性・排外性は、体制派と反体制派で争う世界だからこそ重要な意味を持っており、安全のためには自由を犠牲にしなければならないことを示唆している。この辺、昨今のコロナ禍を連想して複雑な気分になった。

作中にはミルクマンの他に本物のミルクマン(牛乳配達員)がいて、「随分と紛らわしいなあ」と思いながら読んでいたけれど、終盤で本物のミルクマンがあれよあれよとクローズアップされていて、これが笑いのツボにはまってしまった。