海外文学読書録

書評と感想

ジョン・カサヴェテス『アメリカの影』(1960/米)

★★★

マンハッタン。長兄ヒュー(ヒュー・ハード)は見た目が黒人で、弟ベン(ベン・カラザース)と妹レリア(レリア・ゴルドーニ)は見た目が白人だった。3人は黒人と白人の混血児である。ヒューはナイトクラブの歌手だったが、ストリップ劇場で司会をすることに。一方、レリアはトニー(アンソニー・レイ)という白人男にナンパされるも、一夜を共にしたあと家に押しかけられ、出自を知られて微妙な反応をされてしまう。

ビートニクの生態を捉えていると同時に、映画自体がビートニクの精神で撮られていてなかなかすごい。役者は素人だし、台本なしの即興演出だし、映像は16mmのざらついたモノクロである。同じインディーズということで日本のATGを思い出したが、たとえば初期のATGに比べるとかなりプロっぽい。カット割りも役者の演技も洗練されている。素人らしい部分は、映像が粗くドキュメンタリーっぽい雰囲気が出ているところだろう。特に冒頭でビートニクの熱狂を映しているシーンはその粗さゆえに迫力があった。あのトーンで最後まで押し切ったらとんでもない傑作になっていた。

少し前にSNSで映画における思想の有無が話題になった。ネタになったのは『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』。大雑把に分類すると、観客は「何の思想もない」と主張し、批評家は「思想がある」と主張していた。僕も批評を書いているから他人事ではないのだが、『アメリカの影』を観ると映画というメディウムに大した思想はないと思う*1。映画における思想とはマクガフィンのようなもので、映像を前に進めるための言い訳でしかない。思想があると収まりが良くなる。映画にまとまりが出てくる。ただそれだけの便利ツールではないか。それを深刻ぶって「思想がある!」とぶち上げるのは何か違う。確かに思想ではあるが、それは映画を映画として成立させるための思想だ。思想のために映画が作られているのではなく、映画のために見栄えのする思想が導入されている。映画における思想とは、各パーツを滑らかに動かす潤滑剤なのだ。だからあまり思想を重視してもしょうがない。

とはいえ、映画から思想を読み取るのが無意味かと言ったらそうでない。どんな映画にも名目上の思想とは別に時代精神が刻印されている。ビートニクの時代にはビートニクの精神が、現代には現代の精神がある。観客はそこに自分の思想を投影し、批評なり評論なりをぶち上げる。つまり、映画における思想とは、自分の思想を表現するための方便なのだ。映画とは不変不動のものではなく、見る者によっていくらでも捻じ曲げられる。そして、その柔軟性ゆえに批評や評論の対象となる。

同じことは文学にも言えるし、アニメにも言える。まず作品という素材があって、それをどれだけ上手く変形させるかが批評家の腕の見せどころである。牽強付会が過ぎると美しくないし、かといって独自性がないとつまらない。右派の批評家は右派の思想を投影させるだろうし、左派の批評家は左派の思想を投影させるだろう。だから批評家は嫌われるわけだが、だったら読まなきゃいいだけである。

というわけで、映画における思想とは映画に内包されるものではなく、我々が勝手に投影しているだけである。そこを履き違えてはならない。

*1:本作における思想は「人種差別問題」だが、それは映画にまとまりを持たせるための方便に過ぎない。