海外文学読書録

書評と感想

アキ・カウリスマキ『愛しのタチアナ』(1994/フィンランド=独)

愛しのタチアナ (字幕版)

愛しのタチアナ (字幕版)

  • カティ・オウティネン
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★★★

1960年代のフィンランド。独身中年男性のヴァルト(マト・ヴァルトネン)は実家で仕立て屋の仕事を手伝っていた。彼は母親(イルマ・ジュニライネン)がコーヒーを切らしていることに腹を立て家を出る。自動車修理工レイノ(マッティ・ペロンパー)の元に行き、修理に出していた車を引き取る。試運転を名目に2人でドライブすることに。バーでロシア人のクラウディア(キルシ・テュッキュライネン)とエストニア人のタチアナ(カティ・オウティネン)と出会う。女2人を港まで送ることになった。

西側と東側の越境を描くと同時に、見ず知らずの異邦人が互いに越境する様子を描いている。フィンランドの歴史的な問題はロシアとどう向き合うかというもので、当時のロシアはソ連だった。エストニアソ連に併合されている。冷戦の真っ只中にあった西側と東側はどのようにして融和すべきか。それを男女のロマンスに重ねたところが面白い。国と国は理解し合えないが、民間レベルでは理解し合えるということだろう。もちろん、そんなメッセージは大っぴらにはしてない。しかし、この無骨でぎこちない交流が実を結ぶあたりファンタスティックな甘さがある。それこそコーヒーに砂糖とシロップをぶちまけたような。レイノの決断は最高にイカしている。

本作ではマッティ・ペロンパーが饒舌で、今までの映画では考えられないくらい喋っている。序盤、車内でマシンガントークを繰り広げているシーンには面食らった。そもそもアキ・カウリスマキの映画でここまでセリフのある人物なんていなかったのではないか。みんな寡黙で無表情で何を考えているのか分からない。マッティ・ペロンパー演じるレイノは、気を許したヴァルトにだけ饒舌に語りかけている。この光景がとても奇妙だった。

西側と東側が音楽によって対比されている。西側はロック音楽。レイノはロック被れで革ジャンを着てテレビの演奏シーンに見入っていた。そして、店ではバンドが生演奏をしている。西側の豊かな物質文明をロックが象徴していた。一方、東側は牧歌的なロシア民謡(?)で、レストランで曲が流れた際は女性2人が踊りだしている。これはこれでひとつの文化だが、ロックに比べるとどうにも芋臭い。実際、男性2人は「バカな女たちだ」と一蹴してるわけで、西側と東側の溝が音楽の違いによって浮き彫りにされている。方や豊穣なロック。方や質素なロシア民謡。冷戦で西側が勝利したのもむべなるかなである。

終盤、車でカフェをぶち破るフラッシュバックは、西側と東側の壁をぶち破れなかったヴァルトの心象風景だろう。レイノは越境し、ヴァルトは元の場所に戻った。当時のロックは反抗の音楽だったが、ロック被れのレイノが退屈な日常から脱出できたのもその精神ゆえである。ヴァルトには今一つそれが足りなかった。だから退屈な日常にまた埋没することになる。

というわけで、異なる世界への越境を男女のロマンスに重ねたところが良かった。