海外文学読書録

書評と感想

エルヴェ・ル・テリエ『異常』(2020)

★★★

2021年6月。パリ発ニューヨーク行きのエールフランス006便が乱気流に巻き込まれる。アメリカ国内に着陸すると、3ヶ月前に同じ飛行機が着陸していることが判明した。乗員・乗客もまったく同じで、3ヶ月前に来た人たちは普通に暮らしている。後から来た人たちはいわゆる分身だった。この現象について科学と宗教の見地から考察する。

おや、彼女が読んでいるのはクッツェーだ。その作品をミゼルはまだ読んでいない。

それ、いいですか? 彼はたずねる。えっ? クッツェーの本ですよ。ああ、ええ、でも、『恥辱』には勝てません。そうでしょうね、とミゼル。あれは彼の最高傑作だ、でしょ? ええ、傑作です。彼女はそう認めると、ミゼルから顔を背ける。ミゼルは自分が相手を煩わせていることを察し、それ以上話しかけることはしない。そしてふたたび手帳に向かい、皮肉抜きで、〈恥辱〉と書きつける。(p.215)

ゴンクール賞受賞作。

最初は焦点人物を次々と変えていったのでいまいち掴みどころがなかった。ところが、150ページあたりから事態が急変して面白くなる。振り返ってみれば、序盤は登場人物の紹介をしていたのだ。紹介が終わってからはSFじみた奇妙な事件が発生して俄然興味が湧いてくる。

複製された人たちは全部で243人。彼らはアメリカ政府によって勾留されている。カフカ的な超常現象に対し、徹頭徹尾現実的な手段で対峙しようというのが本作の眼目だ。

この複製現象については2つの見地からアプローチされている。

ひとつは科学的アプローチ。科学者たちによって様々な仮説が提唱されるも、検証ができないので真相は宙に浮いたまま。結局、シミュレーション仮説がもっとも有力的という結論に至る。しかし、これだって正しいかどうかは未確定だし、仮に正しいとしても何の解決にもなってない。仮設と検証のサイクルが回らないと科学は無力なのだった。

そして、もうひとつは宗教的アプローチ。世界中のあらゆる宗派の代表者が集められ、侃々諤々の大議論を繰り広げる。ところが、議論は平行線を辿ったまま、お互いの信仰の違いを浮き彫りにするだけだった。斯界の有力者が集まっても何の実りももたらさない。結局は物別れに終わっている。ここまで世界観が折り合わないと、異なる宗教間で戦争が起きるのもむべなるかなと思う。

乗員・乗客については人権の問題があるのでいつまでも勾留するわけにはいかない。結局は分身同士を引き合わせて日常に帰すことになる。ここは各自の境遇によって違ったドラマが展開するわけだ。ある2人組は双子として共生するし、また、ある2人組は権利を巡って争うことになる。すべてが丸く収まるわけではない。しかし一人だけ特異な人物がいて、それは作家のミゼルだった。というのも、彼は4月に自殺してこの世から去っていたのである。それが6月のエールフランス006便で生きて帰ってきた。つまり、キリストのような復活を果たしたのだ。カフカ的な不条理によって宗教的な奇跡が演出される。これが何とも可笑しい。

この複製現象は中国でも起きていたのだけど、中国では徹底して隠蔽しているところがお国柄だった。西側と東側では現在でも越えられない壁がある。

というわけで、SF要素を持ち込んだ軽めの思考実験小説として楽しめた。