★★★
一人暮らしのボー・ワッサーマン(ホアキン・フェニックス)は父の命日に母の元を訪れるつもりだったが、予期せぬトラブルがあって飛行機に乗り遅れる。翌日、母は事故死するのだった。その後、不運が続いて負傷したボーは、ロジャー(ネイサン・レイン)とグレース(エイミー・ライアン)の家で介抱される。
全編が非現実的な寓話のように構成されている。まるでドラッグによって喚起された幻覚のような世界だ。ボーに降りかかる災いはどれも突拍子がなく、リアリズムから逸脱した不条理劇が展開している。こういった世界観を貫いたのは目新しいが、一方で登場人物の奇行がいかにも奇行といった感じで白々しい。新規性と茶番が同居しているところは『ミッドサマー』と同じで、これはアリ・アスターの作家性なのだろう。野心的な作風のわりに手放しで褒めるのは躊躇われてしまう。
母と息子の癒着はありふれた題材だが、本作みたいに悪夢的な映像で語られると迫真性がある。支配的な母ほど厄介なものはない。それは『母という呪縛 娘という牢獄』【Amazon】を読めば一目瞭然だろう(この本は母と娘の関係を扱っている)。男にとって母は恐怖の対象である。なぜなら母は子育てに直接関与する機会が多いからだ。子育てとは子供に規律を叩き込むことであり、その過程で多大な圧力をかけることになる。体罰まではいかなくても、叱責するくらいは日常茶飯事なのだ。その結果、我々は子供心に母に対する恐怖を植え付けられる。それは終生つきまとう根源的なもので、ある人はミソジニーを拗らせ、ある人は童貞を拗らせることになる。どちらも母の呪いであることは明白だ。ボーが中年になっても童貞だったのは母の影響である。
本作の大きな特徴は父の不在だろう。ボーの父は彼が生まれる前に姿を消している。だからボーは父を知らない。代わりに強権的な母からの強力な支配を受けている。息子として生まれた我々は、良き伴侶を得て父になることがロールモデルになっている。しかし、ボーは母によって精神的に去勢されていて父になることができない。本作は父になれない苦しみが全体を貫いている。ボーと母の関係は、『チェンソーマン』【Amazon】におけるデンジとマキマの関係のようだ。どちらも母の強力な支配に対し、息子がいかにして抗うかが課題になっている。デンジはマキマとの関係にひとつの答えを出したが、ボーのほうはどうにもならなかった。彼は知己の女とセックスして童貞を脱するも、その抵抗はすぐさま潰されることになる。母に捕らえられて裁きを受けることになる。ボーは最後まで母の支配から脱することができなかった。
結局のところ、現代において我々は父になることができないのだ。フェミニズムの伸張によって男性性は縮退している。「男らしさ」が有害なものとして退けられ、去勢された家畜が街にあふれている。特にキリスト教社会では神=父であるため、父性の喪失は神の喪失と同じだ*1。そう考えると、本作の狂った世界は神なき後の無秩序な世界と読み換えることができる。現代社会では父が不在になり、代わりに母の権力が増した。その現実を悪夢的な世界観で表現したところは評価できる。