海外文学読書録

書評と感想

シャンタル・アケルマン『ノー・ホーム・ムーヴィー』(2015/ベルギー=仏)

★★★

シャンタル・アケルマンの母はポーランド系ユダヤ人。現在はブリュッセルに住んでいる。彼女はアウシュヴィッツ強制収容所の生き残りだった。アケルマンは母の家で話をしたり、スカイプでビデオ通話したりする。

ドキュメンタリー。アケルマンは本作を完成させた後に自殺している。

映画監督が全力でホームムービーを撮るとこうなるのだろう。劇中でPCのモニターに撮影の様子が映り込んでいたが、カメラはソニーのハンディカムを使っていた(機種は不明)。映像は例によって固定カメラによる長回しが主体。たまに手持ちでカメラを動かしている。整然としつつもちょっと荒削りな映像で、相変わらずインディペンデント感が強かった。商業映画というよりはミニシアターでこっそり上映されてそうな映画である。こういうプライベートな映画が世間に公開されているのが不思議だ。

アケルマンの映画は構図の映画である。というのも、固定カメラで長回しを多用するということは、そのぶん同じ構図を長く映し続けるから。何を映すか、どこにカメラを置くか。つまらない構図が続くと見ているほうも飽きてしまう。だから構図の決め方は重要だ。母が食事するところを背中から映す。ドアの隙間から人が動く様子を映す。左右対称の構図で無機物を映す。本作を見ると、映画の文体が映像であることを意識させられる。アケルマンも撮影に癖があるのだ。長回しはこちらが予想するよりもワンテンポ長いし、何の意図で撮ったのか分からない風景を延々と流し続けることもざらである。世の天才監督のようにすべてを計算づくで撮っているわけではない。思いつきなり瞬間的なインスピレーションなりを重視している。そのせいか映像はやや荒削りであり、インディペンデントでミニシアターな作家性に繋がっている。そこがファンにとっては味なのだ。決して上手いわけではない。それどころかキャリアのわりに素人臭さで溢れている。個人的にこういう映画は嫌いになれない。

母との関係は1976年公開の『家からの手紙』でも描かれていた。当時に比べると母との距離が近い。つまり、お互い歳をとったのだろう。娘はもう糸の切れた凧ではないし、母は人生の終幕を迎えようとしている。一般的に父と息子は歳をとっても関係がぎこちないが、母と娘はそうではない。多少のすれ違いはあっても腹を割って話すことができる。母ももう歳だからホームムービーを撮ろう。こういう発想は父と息子の関係では出てこない。母と娘の関係は見ていて羨ましく思う。

母を通してユダヤ人としてのルーツを探る意図も見て取れる。この辺は過去に『アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学』でも題材にしていた。ヘブライ語の話や教育の話なんかはユダヤ人っぽい。特に後者は偉人伝に出てくるような教育方針が飛び出してきてびっくりする。そして、極めつけは母がアウシュヴィッツの生き残りであるところだ。母方の祖父母は殺されたが母だけ生き残った。ユダヤ人である以上、ホロコーストの問題は重くのしかかってくる。