海外文学読書録

書評と感想

シャンタル・アケルマン『家からの手紙』(1976/ベルギー=仏=独)

★★★

ニューヨーク。路地や電車の中、雑踏などを背景にシャンタル・アケルマンが母の手紙を朗読する。

ミニシアター系らしくアイデア勝負のところはあるが、ちゃんとそれなりの映画になっていた。やはり映像の力は強い。基本は固定カメラで、記憶の限り動かしたのは1回だけ。ゴミ収集車を追ってパンしたシーンのみである。そして、だいたいはカメラを特定の場所に設置して朗読を重ねているが、車にカメラを乗せて移りゆく風景を映すシーンもある。固定カメラだからこそ静と動のコントラストが映えるのだろう。見たところアケルマンの映画は固定カメラと長回しが特徴のようで、初期はその方法論を追求している節がある。

電車の中を映したシーンが異彩を放っていて、これはゲリラ撮影なのかと訝った。というのも、乗客の何人かがカメラに意識的なのである。あるおじさんなんかカメラをガン見して何か言いたげだったし、撮影クルーとトラブルに発展するんじゃないか、そういう不穏な雰囲気を漂わせている。商業映画ではなかなかこういうのは見られない。映っているのはだいたいエキストラだから安全が保証されている。このシーンはゲリラ撮影ならではの緊張感に溢れていた。

手紙の朗読で面白いのは母と娘に温度差があるところだ。母は頻繁に手紙を送っているのに娘はあまり返信していない。そんな娘に母は不満げである。ある手紙では十日間便りが来ないだけで「生きた心地がしません」と書いてくるのだから相当だ。一見すると母が過保護に見えるが、そんなことはない。親というのはみんなそういうものである。異国の地で一人暮らしする子供が心配なのだ。僕も上京したばかりの頃は親から頻繁に連絡が来た。当時は何でそんなに連絡してくるのだろうと首を傾げていたが、今ならはっきり分かる。子供が目の届く場所にいないから心配なのだ。規則正しい生活は送れているか、トラブルに巻き込まれていないか、一人で不安はないか。できれば詳細な近況報告を聞きたい。子供からするとちょっと鬱陶しいが、そういう親心も無下にはできない。アケルマンが少ないながらも返信しているのは親に愛情があるからだろう。しかし、彼女にとっては目の前の生活のほうが優先だ。そうそう故郷のことを気にしてはいられない。子供はそうやって巣立っていくものであり、母と娘の温度差は我々にとってありふれた光景である。

当時は手紙でやりとりするしかなかったが、今はスマホで繋がりっぱなしの時代になった。娘が世界中のどこにいようと母が手紙を待ちわびることはない。LINEを送ったら24時間以内に返信が来るし、時間が合えば通話だって安くできる。便利になった反面、本作のような情緒は失われた。ここまで連絡手段が身近になったのも画期的で、テクノロジーの発展が社会をガラリと変えたのである。手紙はもうアナクロ趣味にすぎない。常時接続の時代に生きる僕は本作に郷愁をおぼえる。