海外文学読書録

書評と感想

スティーヴン・スピルバーグ『フェイブルマンズ』(2022/米)

フェイブルマンズ (字幕版)

フェイブルマンズ (字幕版)

  • ミシェル・ウィリアムズ
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★★★

1952年、アリゾナ。両親に連れられ初めて映画館を訪れたサミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)は、『地上最大のショウ』の列車衝突シーンに取り憑かれるようになる。8ミリカメラをプレゼントされたサミーは映画作りに熱中するのだった。一方、父バート(ポール・ダノ)と母ミシェル(ミシェル・ウィリアムズ)と友人ベニー(セス・ローゲン)は親密な付き合いをしているように見えたが……。

アメリカの主流文学っぽい家族もの。監督の自伝的映画らしい。作家も映画監督も歳を取ると人生を振り返り、両親と折り合いをつけたがる(和解したがる)のだなと思った。特に日米にこの傾向が強いような気がする。「死」を意識するとそうなってしまうのだろうか。よく分からない。

物語の多くをクリシェに負いつつ所々光る表現もあり、トータルではプラスマイナスゼロという感じだった。母の浮気が原因であれだけ好きだった映画から離れるとか、転校先でいじめっ子に殴られるとか、観客をやきもきさせようという意図が透けて見えてうんざりする。とはいえ、ひょんなことから映画作りを再開していじめっ子(サム・レヒナー)と邂逅するシーン。こうなるとは分かっていても感動的なのだ。しかも、ちょっと捻くれているから心憎い。いじめっ子は当初、格好良く撮られたことをフェイクだと恥じてサミーを詰めている。つまり、素直に喜んでおらず、お互いの思いをぶつけ合って理解を深めているのだ。こういうクリシェの中に仕込まれた独自性には感心する。他にも、ユダヤ人のサミーが熱狂的なクリスチャン(クロエ・イースト)と甘酸っぱい恋をするところもすごかった。クリスチャンの部屋がキリスト塗れで狂気を孕んでいるのである。スピルバーグは凡庸なクリシェを用いつつ、それを凌駕するセンスを見せつけてくる。だから油断できない。売れっ子監督は一味違うなと感心する。

いじめっ子に詰められたサミーは「カメラは見たままを撮る」と弁明している。ここで観客は母の浮気を撮ってしまった過去を連想するわけだ。見たままを撮ってしまう罪の深さ。ただし、カメラは見たままを撮るが、映画は編集で嘘をつく。母の浮気を撮ったホームビデオでは浮気の場面をカットして上映した。そして、いじめっ子を格好良く撮った映画もそういう編集をしているから格好良く映っているのである。サミーはこの部分の欺瞞を隠している。むしろ、隠しているのはサミーではなく、その背後にいるスピルバーグだろう。カメラは見たままを撮るが、映画は編集で嘘をつく。本作は前者にフォーカスしたまま後者に切り込んでおらす、そこが不思議でならなかった。

父よりも浮気相手を選んだ母は、「心を満たさないと別の人間になってしまう」とサミーに説いている。母が浮気をしたのは自身の心に忠実に従ったからなのだ。また、父も好きなことを諦めない性格をしており、好きな仕事のためにユダヤ人の少ないカリフォルニアに引っ越している。家族から不満の声が上がっても意に介さない。父と母は自身の心に忠実という点で似た者同士なのだ。そして、そんな両親の薫陶を受けたサミーも好きな映画の道に邁進することになる。両親の生き方が人生の指針になっているわけで、そういう構造は家族ものとして収まりがいいと思った。

ジョン・フォード(デヴィッド・リンチ)と会った後のラストショット。真ん中に据えた地平線を下に持ってくるユーモアが堪らない。やはり売れっ子監督は一味違うと感心する。

2024年3月4日追記。

地平線については『映画技法のリテラシーⅠ』【Amazon】に面白いことが書いてあった。

構図の上方は下方より重要度が高い。このため、高層ビルや円柱や尖塔などの建物は上にいくに従って小さく細くなるように撮影しないと、非常に圧迫感を持った重い映像となってしまうだろう。多くの重りが画面の下のほうに置かれて全体の重心が低く保たれている場合には、映像はよりバランスが取れて見えるといわれている。地平線などは構図の真ん中より上にくるように撮影しないと、そこから上に映る空は非常に重く地面を圧迫しているかのように映るのである。壮大な叙事詩的映画を製作したエイゼンシュテインやフォードなどはそうした構図の重心による効果をあえて利用して、いわゆるバランスが崩れて不安定な映像をよく用いる。その結果、広大な風景を写したショットは空が地上を支配して重くのしかかり、地上にたたずむ人物も広大な空に圧倒されているかのような映像となるのだ。(pp.74-75)

これを読むとジョン・フォードのアドバイスが実は特殊だったことが分かる。セオリー通りだと地平線は真ん中より上に置くようだ。