海外文学読書録

書評と感想

ローラン・ビネ『文明交錯』(2019)

★★★★

遠い昔、ヴァイキングが鉄・病原菌・馬をアメリカ大陸に持ち込む。そして、16世紀。インカ帝国のアタワルパは兄の軍勢に追い詰められて船に乗った。行き着いた先はポルトガル。一行はスペインまで進んで成り行きからトレドで虐殺を行い、さらにカール5世を罠にかけて捕縛する。これがアタワルパによるヨーロッパ征服事業の始まりだった。

どうやら三位一体の件は、異端審問最高会議と呼ばれる一種の諮問機関を構成する聖職者たちにとって、決して見過ごせない大問題だったらしい。彼らはイエスという人物が神の子であることを信じるのか信じないのかと、アタワルパを執拗に問いつめた。そこでアタワルパはこう答えさせた。はるか昔にこの世界を創られたのはウィラコチャである。パチャカマも太陽と月の子であり創造神とされているが、これについては自分はすでに信じていないと。だが、善意を示そうと正直に述べたこの答えがますます反感を買ったようで、聖職者たちはむっつりと黙り込み、互いにちらちらと視線を交わすばかりだった。(p.121)

ヨーロッパによる新大陸征服を反転させた歴史改変小説。要所要所で史実のミラーリングをしているうえ、アタワルパによる統治は概ね寛容である。それが史実の批評になっていて面白い。というのも、史実においてヨーロッパは新大陸の収奪しかしなかった。現地民にはキリスト教への改宗を強制し、労働力から土地・資源まですべてを奪い尽くした。一方、本作のアタワルパは信教の自由を認め、土地の再分配を行い、納税・賦役も当時としては破格の低負担である。つまり、善政を敷いたのだ。この辺はちょっと出来過ぎに思えるが、実は史実において前例がないわけでもない。たとえば、イスラム教国家は支配地域に信教の自由を認めたし、モンゴル帝国も同様だった(人材も異教徒を積極的に登用した)。現代人から見て野蛮と思われた文明は、実は驚くほどの寛容さを見せている。インカ帝国がその類だとしてもおかしくないだろう。史実を反転することでヨーロッパの不寛容を浮き彫りにする。その試みが面白い。

アタワルパは単純な武力で侵略したわけではなく、ヨーロッパの複雑怪奇な政治情勢を利用したところがあり、史実を知っているとなお面白い。たとえば、フランスはスペインと領土問題があるからアタワルパに協力することもやぶさかでない。ムーア人キリスト教徒と対立しているし、ユダヤ人はキリスト教徒に迫害されていたから味方になる可能性があった。一方、イングランドではヘンリー8世が結婚問題でローマ教皇と揉めており、インカの宗教に改宗すると言い出している。四面楚歌に思われたアタワルパにも付け入る隙があったのだ。怖いのはローマ教皇によって十字軍を起こされることだったが、そこはアタワルパが洗礼を受けることで回避している。そして、ヨーロッパでは黄金があれば何でもできる。後にアタワルパは本国から金銀の供給を受けることになり、それによって支配がスムーズになった。こういう部分は思考実験としてよく出来ている。

要所要所で史実のミラーリングを行っている。カール5世の捕縛は史実におけるアタワルパの捕縛を反転させたものである。また、太陽神の九十五条の提題は、ルターの九十五条の提題を踏まえている(文言も一部そのまま流用している)。トマス・モアとエラスムスの往復書簡も、後者がインカの宗教に好意的で思考の柔軟さが好ましい。ミラーリングは皮肉であると同時にifでもあり、歴史改変小説におけるスパイスである。本作はこのスパイスもよく効いていた。

ヨーロッパの歴史を通じて迫害されてきたユダヤ人が、アタワルパによって解放されている。質の高い労働力としてアンダルシア地方の繁栄を支えることになった。この世界線ならナチスによるホロコーストも起きないだろう。世界史の悪事はすべてキリスト教の不寛容に原因がある。そこは肝に銘じておきたい。