海外文学読書録

書評と感想

ジョン・スタインベック『怒りの葡萄』(1939)

★★★

オクラホマ州。殺人の罪で服役していたトム・ジョードが、4年の刑期を務めて仮釈放される。家に帰ると家族は農場を引き払うところだった。オクラホマ州では農業の機械化が進んだうえに砂嵐で仕事ができなくなったため、労働者を募集しているカリフォルニア州へ移住するのだという。ジョード一家は元説教師のジム・ケイシーを加え、車で国道66号線を突き進む。

「そのことだったら心配しなくていいよ、ジョードの奥さん」と、彼は言った。「あんたは二度とあの人に会うことはないだろう。あの人は新しくはいった者だけをいじめるんだ。ここへは二度と来ないさ。あんたのことを罪人だと思っているんだもの」

「そりゃあ、あたしは罪人ですよ」と、おっかあは言った。

「そうとも、誰だって罪人なんだ、あの人が言うのと意味は違うけどね。あの人は加減がよくないんだよ。ジョードの奥さん」(p.359)

ピュリッツァー賞受賞作。

集英社版世界文学全集(野崎孝訳)で読んだ。引用もそこから。

プロレタリア文学のような筋立てでありながらも、随所にキリスト教の寓意を散りばめていて、ちょっと一筋縄ではいかない感じだった。元説教師のジム・ケイシーはイエス・キリストに見立てられているし、一行の旅路は出エジプト記を踏まえている。また、ラストシーンは聖母を意識した構図になっていて、無宗教の僕には読解が難しかった。

人間はみな何らかの罪を背負っている、という観念が貫かれている。これはアダムとイブによる原罪とはまた違っていて、人は生きていくうえで何かしらの罪を犯すものだという至って現実的なものだ。それを象徴しているのが主人公のトム・ジョードで、彼はやむを得ない事情で人を殺し、4年間服役している。トムは仮釈放の身だからオクラホマから出てはいけないのだけど、今回それを破って旅に出ることになる。またもや法を犯すことになる。しかしながら、これも生きるためには仕方のないことで、本作は人間の抱える罪、引いてはそれをせざるを得ない弱さに注目している。また、ジョン伯父も罪の主題に深く関わっていて、彼は自分の罪を洗い流したいと願っている。ジョン伯父は言い知れぬ罪悪感に苛まれていつも落ち着きがなかった。

結局のところ、これはアメリカ文学でよく見るイノセンスの問題なのだ。自分たちはヨーロッパ人と違って穢れてない。罪のない悔い改めた人たちが、メイフラワー号で新大陸に渡って国を造ったのだから。ところが、実際は先住民を殺戮し、彼らの土地を奪って我が物顔で闊歩している。アメリカ人は無垢ではない。資本家も労働者もその手は血に塗れている。登場人物が抱える罪の裏には失われたイノセンスが隠れていて、本作は極めてアメリカ的な小説と言えよう。

ジョード家の旅路は西部開拓時代における西漸運動をなぞっているものの、20世紀にあっては夢も希望もなかった。カリフォルニアは何もかもが誰かのものになっており、一家が入り込む隙はない。それどころか、各地からあぶれ者が大挙しているせいで農場主に労働力を買い叩かれている。カリフォルニアは銀行が支配しており、農場主に賃金の切り下げを要求していた。それを受けた農場主は、労働者を団結させないよう保安官を使ってスト破りをさせている。もはやアメリカには乳と蜜の流れる約束の地はなかった。本作は西部開拓時代の終焉を残酷なまでに示していて興味深い。