海外文学読書録

書評と感想

シャンタル・アケルマン『私、あなた、彼、彼女』(1974/ベルギー=仏)

★★★

若い女シャンタル・アケルマン)が狭いアパートの部屋にいる。彼女はテーブルを動かしたり、マットレスに寝そべったり、袋に入った砂糖を食べたりしていた。やがて彼女は部屋を出る。ヒッチハイクしてトラック運転手(ニエル・アレストリュプ)と食事をし、たどり着いた先で女(クレイル・ウォシオン)とセックスする。

人生の断片を見せられているのだが、人生って存外退屈であることが分かった。やることなすことすべてが一時的なものに過ぎない。他者との出会いも一時的なら、セックスによる快楽も一時的。人生とは根本的に虚無であることが分かる。

若い女は部屋で無意味なことをして時間を潰している。テーブルを動かしたり、マットレスに寝そべったり、袋に入った砂糖を食べたり。かと思えば、手紙を書いたり、全裸になったり、とにかく自由に過ごしている。その様子は動物園の動物のよう。我々は檻の中の動物を眺めている。干物女の奇行は見ていて意外と飽きない。動物的な挙動と詩的なモノローグでこちらの興味を繋ぎ止めてくる。

トラック運転手と行動を共にするパートでは印象に残る長回しがニ箇所ある。

ひとつは一緒に食事するシーン。一般的に長回しは通常のカット割りの中で使われると異化効果が生まれる。このカットは妙に長いぞ。いつ終わるんだ、と。ところが、この食事シーンはこちらの想像以上に長い。長くて倦怠感を覚えるほどである。しかも、テレビの音がうるさくて不快だった。2人は無言で食事をしているだけだし、とにかくテレビの音がうるさい。ここは時間の調整が上手くいってないように感じる。

もうひとつはトラック運転手が自分語りするシーン。運転しながらのピロートークである。話している内容はごく平凡な自分語りだが、固定カメラによる長回しがリアルな雰囲気を醸し出している。その様子はドキュメンタリーのようだ。インタビューに延々と答えているような擬似的なドキュメンタリー。これは長回しの正しい使い方で、カットを割ったら負けだろう。時間も適切で食事のシーンに比べるとだいぶ良かった。

女とのレズセックスはどれも長回しで3カットある。どのカットも全裸でイチャイチャしているわけだが、若い女の裸体はそれだけで鑑賞の価値がある。ただ、長回しはどれも「長すぎる」と思うくらい長い。長回しという言葉から想定されるほどのちょうどいい長さではないのだ。そこはちょっと雑である。商業映画の長回しは長さを快適な範囲に収めているから。本作は編集に慣れていなくて時間をコントロールできていないように見える。

劇中で言葉のキャッチボールがないのは意図的だろう。部屋にいるときはモノローグ。トラック運転手と一緒のときはトラック運転手の一人語り。女の家にいるときは一方的に要求を伝えているだけ。いくら一緒に行動しても、またいくら体を重ねても、二者間のコミュニケーションは成立しない。まるで目の前にいるのは道具としての他者であるかのように。本作は深刻なディスコミュニケーションを描いている。

音にも注目したい。特にトラック運転手のパートでは敢えて不快な音を出している。食事のシーンにおけるテレビの音。洗面所での電気シェーバーの音。バーに入ったときの喧騒。レズセックスの快楽とは対照的に男といるときは不快である。