海外文学読書録

書評と感想

ビリー・ワイルダー『情婦』(1957/米)

★★★★★

ロンドン。老弁護士ウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)は重病だったが退院したばかり。そこへ殺人事件の容疑者レナード・ヴォール(タイロン・パワー)がやってくる。彼は未亡人殺しの容疑をかけられていた。ウィルフリッドはレナードの弁護を引き受けることに。やがて開廷。検察側の証人にレナードの妻クリスチーネ(マレーネ・ディートリッヒ)が召喚される。彼女の証言は意外なものだった。

原作はアガサ・クリスティーの戯曲『検察側の証人』【Amazon】。

再見だから大ネタは分かっていたが、それでも終盤の畳みかけには感心する。当時の技術であの偽装は見事だし、秩序の回復をああいう手段で行ったのも絵面として面白い。そして、原題とかけ離れた邦題も悪くない。「検察側の証人」と「情婦」は光の当て方が違うだけで、最後まで見ると邦題にも納得させられるのだ。確かに「検察側の証人」でもあるし、「情婦」でもある。ともあれ、本作は極上の法廷劇であると同時に、極上のエンターテイメントだった。

序盤から登場人物が丁々発止のやりとりをしていて、さすがシェイクスピアを生んだ国だと思う。こういう会話劇は戯曲の醍醐味である。面白いのはウィルフリッドの人物像で、彼には重篤な健康不安があった。とても法廷に出られる体調ではない。看護婦にも無茶をしないよう諌められている。しかし、それを押してレナードの弁護を引き受けることになった。法廷では決まった時間に薬を飲む必要があるし、興奮すると体調が悪化してしまう。ウィルフリッドは凄腕の弁護士でありながら重大な欠陥を抱えているのだ。下手したら裁判中にぽっくり逝ってしまうかもしれない。それが本作のアクセントになっていて、ウィルフリッドの存在感は並々ならぬものがある。

法廷劇の面白いところは論理のゲームであるところだ。検察側が証人から被告に不利な証言を引き出す。弁護側がそれを覆すような証言を逆に引き出す。攻撃のターンと防御のターンが交互に繰り返されている。ゲームだから当然ルールがあり、検察側も弁護側もそれに従って紳士的にゲームを進めている。そして、本作を特別なものにしているのはルールの間隙を突いているところだ。法廷劇というゲームには重大なバグがあった。ある人物はそれを見逃さずにハックしている。本作は終盤の畳みかけに目が行きがちだが、肝となるのは裁判をハックしているところだ。こういうことをよく思いついたものだと感心する。

レナードにはアリバイを証明する目撃者がいない。証言台に立ったときは「誰かが僕を見てるはずだ」と慨嘆している。ここで浮き彫りにされたのは「まなざしの不在」ではなかろうか。神は人々のことを見守ってない。人間を見てるのは別の人間である。すべてを見通す神がいないからこそ、人の手で裁判が行われている。「まなざしの不在」は神が存在しないことを証明していた。近代合理主義の社会は神の不在を前提に組み立てられている。だからこそエビデンスベースで審理する必要があるわけで、神の不在こそが世界を面白くしている。

マレーネ・ディートリッヒといえば美脚で有名だが、この期に及んで脚を出させているのには笑った。当時56歳である。しかし、56歳には全然見えなかった。ぱっと見40歳くらいで、これだけ若々しさを保っているのもすごい。まさに美魔女である。