海外文学読書録

書評と感想

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014/米)

★★★★

俳優のリーガン・トムソン(マイケル・キートン)が、ブロードウェイでレイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」の演出・主演をすることになる。リーガンは落ち目のハリウッド俳優で、20年前に『バードマン』シリーズが大当たりして以降は鳴かず飛ばずだった。彼には娘サム(エマ・ストーン)がいる。また、女優のレズリー・トルーマンナオミ・ワッツ)と恋仲にある。リーガンは舞台を成功させることで再起を図っていたが、その計画は中途参加した俳優マイク・シャイナー(エドワード・ノートン)によって壊されていく。

見ていてジョン・カサヴェテス監督の『オープニング・ナイト』を連想したが、同作とは異なる捻くれた作風で面白かった。『オープニング・ナイト』が比較的ストレートな回復の物語なのに対し、本作はフィクションについてのフィクションになっている。演劇を題材にしたバックステージものとして両者は甲乙つけ難い。というのも、撮影は現代の映画らしくリッチなのに、作風はインディペンデントな感じなのである。シネフィル向けの本作がアカデミー賞作品賞を受賞したのが面白い。

映画と演劇の一番の違いはライブ感であり、身も蓋もない言い方をすればハプニングが起きるかどうかである。映画でハプニングが起きることはまずない。仮に撮影中に起きたとしても撮り直すだけである。数あるテイクから一つを選んで編集するのが映画であって、我々は商品として加工された完成品を見せられている。一方、演劇はリアルタイムで行われるから出たとこ勝負だ。俳優はセリフを忘れるかもしれないし、突如発狂して暴れ出すかもしれない。あるいは観客が舞台に飛び入りする可能性だってある。そういうハプニングを潜在的に抱えているから上演が終わるまで気が抜けない。実際、本作でも何度かハプニングが起きている。そのハプニングが劇を壊すこともあれば、劇を輝かせることもある。そこは俳優の腕の見せどころだし、観客の受け取り方次第だ。演劇はハプニングを潜在的に抱えている。本作の焦点はそこにある。

本作におけるハプニングは回を重ねるごとに大きくなる。最初は代役の俳優が暴れたり勃起したりする程度だった(これはこれで一大事だ)。ところが、次はあろうことか主演がパンツ一丁で舞台に上がるはめになる。これらのハプニングは舞台をぶち壊しにした。リーガンの再起も絶望的である。しかし、ハプニングはこれで終わらない。狂気に取り憑かれたリーガンは舞台上である大胆な行為をする。それは命に関わるものだった。

皮肉なのはこれが批評家に絶賛されることだ。一歩間違えたら死んでいたのに、新聞ではスーパーリアリズムだと評されている。本作においてリーガンもマイクも狂人として描かれている。リーガンは幻聴と妄想に取り憑かれているし、マイクは独自の拘りを発揮して舞台を壊している。しかし、実はこの2人よりも世間のほうが狂っていた。人の生き死にをエンターテイメントとして捉えるのは潜在的に期待していたハプニングが起きたからである。つまり、我々はリアルタイムのコンテンツに事件・事故のような刺激を求めている。刺激は大きければ大きいほどいい。極論すれば、我々は実生活の向こう側にテロや戦争が起きることを望んでいる。感情を揺さぶられたがっている。そういった大衆の欲望はSNSによって可視化された。ハプニングとはいわば祭りであり、本邦のインターネットでは日常茶飯事になっている。

というわけで、本作は演劇に留まらない広い射程を備えた逸品だった。