海外文学読書録

書評と感想

トーマス・アルフレッドソン『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008/スウェーデン)

ぼくのエリ 200歳の少女 (字幕版)

ぼくのエリ 200歳の少女 (字幕版)

  • カーレ・ヘーデブラント
Amazon

★★★

12歳の少年オスカー(カーレ・ヘーデブラント)は学校でいじめに遭っており、自宅マンションの前で妄想の復讐を果たしていた。彼は殺人事件の切り抜きをスクラップしている陰キャである。ある日、隣に親子連れが引っ越してくる。子供のほうはエリ(リーナ・レアンデション)という名で見た目は同年代。オスカーに話しかけてくる。同じ頃、近所で殺人事件が発生、被害者は逆さ吊りにされて血を抜かれていた。

原作はヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト『MORSE―モールス』【Amazon】。

日本公開版は重要なシーンにぼかしが入っている。普通に見ていたらまず真実に気づかない。その部分は原作でも叙述トリックになっているようなので、さすがにまずかったのではないか。邦題もどういう意図でつけたのか分からない。アダルトビデオのモザイクに代表される通り、日本の法律は性表現に厳しすぎる。グローバルスタンダードに反しているし、これでは芸術作品が台無しである。TPPで改善すべきは著作権の延長ではなく、性表現の解禁ではなかったか。西側に属する日本も、表現の自由に関しては中国やイスラム諸国に寄っていてかなり怖い。

生きるということは最高にエゴイスティックだ。エリはヴァンパイアだから人間の血を吸わないと生きていけない。基本的に血を吸うときは対象を殺害するようだ。稀に殺しきれないときがあって、そういう場合、対象はヴァンパイアに変貌する。人間を食糧と見なすヴァンパイア。どうしたって迷惑である。僕は『鬼滅の刃』を連想した。あの漫画の鬼もエゴイスティックな存在で、生きるために人間を捕食している。しかし、エリの周囲にヴァンパイアはエリしかいない。同族を増やせるはずなのに増やしていなかった。エリは庇護者に助けられつつも、根本的には孤独な存在である。

最近観た『ブルーロック』ではエゴの重要性を説いていた。確かに生きることそのものがエゴイスティックであるため、ある程度のエゴを持つことは必要である。人間は生きているだけで他人に迷惑をかけている。事によっては他人の権利を侵害している。我々はお互いのエゴを認め、もたれ合いながら生きていくべきではないか。他人に迷惑をかけることを恐れない。たとえば、電車にベビーカーで乗り込むことを恐れない。映画館で席を譲ってもらうことを恐れない。そういったエゴを失うと、極端な話死ぬしかなくなる。ヴァンパイアにされた女性が日光を浴びて自殺したように。その点、エリは生きていく覚悟が出来ていた。人間が動物を殺して生きていくように、エリは人間を殺して生きていく。生存本能に身を任せる様子は最高にエゴイスティックだ。

いじめられっ子のオスカーにとって今いる場所は居心地が良くない。そんなときにエリが現れた。オスカーとエリは2人だけの世界を深めていく。こういったキミとボクの関係が様になっているのは、オスカーが金髪の美少年だからだ(しかも、自室にいるときはなぜか半裸になっている)。ヴァンパイアと耽美は切っても切れない関係にある。この辺は既存の文法に忠実だった。