海外文学読書録

書評と感想

チゴズィエ・オビオマ『小さきものたちのオーケストラ』(2019)

★★★

ナイジェリア。イボ人のチノンソはウムアヒア郊外で養鶏を営んでいた。ある日、彼は橋から飛び降りようとしていた女性を助ける。女性の名前はンダリ。2人は紆余曲折を経て恋仲になり、間もなく結婚を誓い合う。ところが、ンダリの家族は地元の名士で、チノンソが貧乏人かつ低学歴であることを理由に侮辱してくるのだった。チノンソはンダリのために稼業を畳み、キプロスに渡って学位を得ようとする。

ンダリは鶏舎のほうに戻ってきて、宿り主をそっと押し、ニワトリたちの泣いている声に耳を傾けた。こちらに向き直ると、まぶたから涙がこぼれ落ちそうになっていた。

「ああ! ノンソ、そうよ! ハーモニーを奏でているみたい。葬送の歌に似ている。まるでコーラスね。そう、この子たちが歌っているのは哀歌よ。耳を澄ましてみて、ノンソ」ンダリはしばらく無言のまま立ち尽くすと、わずかにうしろに下がって、指をパチンと鳴らした。「お父さまが言われたとおりよね。小さきものたちのオーケストラ」(p.319)

本作の面白いところは、チノンソに取り憑いている守り神を語り手にしているところだろう。この守り神はイボ人の信仰を元にした存在で、土着の語りが西洋の小説形式と融合している。ただ、形式とは違和感なく馴染んでいるものの、語り手の所属する世界観は極めて異質だ。そして、形式と世界観のギャップが読み手に異化効果をもたらしている。これが刺激的で面白い。白人の世界とイボ人の世界。両者の世界観は根本的に違うものの、今やグローバル化によって生活圏が繋がっている。だから否が応でも折衷せざるを得ない。本作はそのような事情を特殊な語りの形式にまで昇華しているのが良かった。

とはいえ、語りの面白さに比べると物語は可もなく不可もなしである。本作は守り神が精霊界の法廷でチノンソの罪を弁明するという枠組みのため、一応先が気になるようにはなっている。けれども、終わってみればどうってことのない愛憎劇で、革命的な語りには今一歩及んでいなかった。本作の意図としては、市井の人間の愚かさを愛おしむところにあるのだろう。だから等身大の愚行を用意した。しかし、それにしては現代文学らしい捻りがなく、やはり語りの特殊性に比べると物足りない。これは贅沢な要求かもしれないが、語りと物語、両者が同じくらい面白ければ満足度が上がっていた。本作の場合、語りのオリジナリティが突出していてバランスが悪い。

チノンソは旧友に騙されてキプロスの地で立ち往生するが、それを現地の同胞たちが助けてくれている。これが『チョンキンマンションのボスは知っている』【Amazon】を彷彿とさせて面白い。つまり、自分が困らない範囲での気軽な助け合いをしているのだ。異国の地で同胞たちが義務と責任を負わずにカジュアルな互酬性を発揮する。その結果、国境を越えた巨大なセーフティーネットが構築される。『チョンキンマンション~』は香港のアフリカ人コミュニティを題材にしたノンフィクションだが、それがキプロスを舞台にしたフィクションでも見られて興味深かった。

チノンソを騙した旧友が回心して熱心なクリスチャンになっているところは風刺が効いていた。チノンソの人生を台無しにしたにもかかわらず、「なにもかも、ほんとうにすまなかった。主はこんなぼくを許してくださった。きみも許してくれるかい?」で済まそうとしている。これは懺悔すれば犯した罪が許されるというキリスト教への皮肉だろう。旧友の場合、ちゃんと金を返したから許されたが、これが言葉のみの謝罪だったらかなり悪質だった。このエピソードではキリスト教の不誠実さに肉薄している。

道を歩いていたチノンソが、キプロスの子供たちに「ロナウジーニョ、ロナウジーニョ!」と言われて囲まれるくだりは笑ってしまった。