海外文学読書録

書評と感想

ウィリアム・A・ウェルマン『牛泥棒』(1943/米)

牛泥棒(字幕版)

牛泥棒(字幕版)

  • ヘンリー・フォンダ
Amazon

★★★

1885年のネバダ州。うらぶれた町にギル・カーター(ヘンリー・フォンダ)と相棒のアート・クロフト(ハリー・モーガン)がやってきた。酒場でくつろいでいると、牧場主が殺害されて牛が盗まれたとの報が入ってくる。住人たちは捜索隊を結成することに。大多数は犯人を見つけて吊るそうと躍起になっていた。

原作はウォルター・ヴァン・ティルバーグ・クラークの同名小説【Amazon】。

法の支配の重要性を説いた啓蒙的な映画だった。私刑はよくないという映画を戦時中に作ったのは特筆すべきで、アメリカは非常時でも法の支配が行き届いた国なのだと思い知らされる。もちろん、正当な手続きを経た裁判でも冤罪は起こり得るが、私刑はそれ以前の問題だ。冤罪だったから悪いのではなく、そもそも私刑が悪い。捜索隊は犯人と目した男たちを吊るす際、多数決という手続きを踏んでいる。一見すると民主的だが、民主主義とは法の支配によって保証されている。捜索隊の面々に人を裁く権限はない。ところが、その場のノリと勢いが私刑という空気を醸成し、人々の正常な判断を鈍らせてしまう。彼らの根底にあるのは処罰感情だ。一刻も早く犯人を罰したい。そういった思いが正義の暴走に繋がっている。

本作で描かれたような正義の暴走は現代でも珍しくない。草津町騒動やオープンレターなど、SNSでいくらでも観測できるだろう。理性よりも感情を優先させ、怒りの快楽に身を任せて炎上に加担する。一刻も早く「罪人」を罰したい。正義感の発露がその実ストレス解消の道具にしかなってないのだから呆れる。そもそも裁判官ですら人を裁くのは難しいのに、そこらの一般人が適切に裁けるわけがないのだ。案の定、草津町騒動は冤罪だった。町会議員の告発は虚偽であり、黒岩信忠町長は無罪だった。ところが、炎上に加担した連中は謝罪も反省もせず、今もまた新たなターゲットを探して不満のはけ口にしようとしている。正義の暴走はいつまで経ってもなくならない。こういった問題は坂爪真吾『「許せない」がやめられない』【Amazon】で詳細に分析されているので、参考文献として挙げておく。

法の支配に対するアプローチとしては『十二人の怒れる男』に匹敵するほど画期的だが、映画の作りとしてはちょっと安っぽい。オープンセットがしょぼいとか西部劇の様式美をおざなりに踏襲しているとか(酒場で無理やり喧嘩を始めたのには面食らった)、時代の制約を感じる。特に気になったのが捜索の途中でローズ・メイペン(メアリー・ベス・ヒューズ)を登場させたところで、若い女がいなくて華がないからここらで出しておこうみたいな雑さである。実際、昔の映画はヒーローがいてヒロインがいるという映画が多かった。美男美女をセットで出すことが多かった。これも興行上の要請なのだろう。プログラムピクチャー的な制約の中で本作を作ったのもなかなかすごい。

ふと思ったが、戦時中だからこそアメリカの理想を建国神話に重ねて描きたかったのかもしれない。法の支配こそがアメリカの根幹をなす理念なのだ。この理念に反した者は一生罪を背負うことになる。実に教訓的、実に啓蒙的な映画だ。