海外文学読書録

書評と感想

是枝裕和『三度目の殺人』(2017/日)

三度目の殺人

★★★★

弁護士の重盛(福山雅治)が同業者の摂津(吉田鋼太郎)に頼まれ、強盗殺人で起訴された三隅(役所広司)の弁護を引き受ける。摂津は三隅の証言がころころ変わるのに手を焼いていた。重盛は減刑を勝ち取るため、真実を置き去りにして法廷戦術を組み立てる。ところが、事態は一筋縄ではいかない。やがて重盛はキーパーソンの山中咲江(広瀬すず)と接触する。

我々は他人を理解できないし、従って真実も分からない。なのに分かったふりをして何となく社会が回っている。人は神の目で物事を見ることができず、不完全な主観によってしか判断できない。弁護士の重盛が直面しているのはまさにその問題で、証言が二転三転する三隅に困惑する。なぜ彼がそんなことをするのか分からないし、今更証言を変えられても信じることができない。重盛も観客も三隅の怪人物ぶりに翻弄されることになる。本作は羅生門形式をとらずに「藪の中」を描いた映画で、真実が分からない宙吊り状態のまま話が進んでいく。だから2時間サスペンスのような快刀乱麻を断つ展開を期待すると肩透かしを食う。我々は他人を理解できないし、従って真実も分からない。なのに分かったふりをして何となく社会が回っている。本作を見てその恐ろしさを味わった。

サスペンスの体をとりつつ司法制度の問題を突いているところが面白い。法廷は真実を明らかにする場であるはずなのに、実際はそうではない。弁護士は被告人の利益のために法廷戦術を組み立てるし、検察官は被告人を死刑にするため同様のことをしている。両者は真実を明らかにするというよりは、量刑の多寡を巡って綱引きしているのだ。そして、裁判官は自分の評価を上げるためになるべくスームズに裁判を進めたい。だから真実を明らかにすることよりも訴訟経済を気にしている。結局のところ、弁護士と検察官と裁判官は同じ穴の狢なのだ。ここに人が人を裁くことの難しさがあって、本作の場合、目撃者もいなければ客観的な証拠にも乏しく、有力な証拠は自白のみである。その自白を覆されたら現場は混乱するしかない。事件の真相を知っているのは被告人だけだが、我々は他人の頭を覗くことができないため何が本当なのか分からない。証言を180度変える人間の言うことを信じられるのか。本来だったら公判をやり直すべきだが、訴訟経済を考えるとそれもできない。証言を覆したことでかえって死刑への圧力が強まっている。他人を理解できないことのもどかしさがここでもついて回るのだった。

裁判とは裁判官を説得するゲームであり、弁護士も検察官もそのプレイヤーとして自覚的に参加している。ゲームに勝つためなら真実なんてどうでもいいし、むしろ勝つためなら真実を曲げることだって厭わない。我々が違和感をおぼえるのはこの部分だろう。本作の場合、被告人の命がかかっているわけだが、賭け金が大きいからこそゲームへの責任は大きくなる。しかし、責任の大きさに対して裁判が適切に行われたとは言い難い(本来だったら公判をやり直すべきだろう)。裁判とは合法的に人の命を自由にできる制度だが、それゆえに訴訟経済を気にする心性がグロテスクに見える。そして同様のことは弁護士の発言にも表れていて、強盗目的の殺人より怨恨のほうが死刑を回避できる、それがライフハックのように語られるところもグロテスクである。まるで裁判本来の機能が失われているようだった。

本作は邦画のわりに信じられないくらい撮影がいい。日本を舞台にしてこんな端正な画面作りができるのかと驚いた。