海外文学読書録

書評と感想

ギ・ド・モーパッサン『オルラ/オリーヴ園 モーパッサン傑作選』(1886,1887,1888,1889,1890)

★★★★

日本オリジナル編集の短編集。「ラテン語問題」、「オルラ」、「離婚」、「オトー父子」、「ボワテル」、「港」、「オリーヴ園」、「あだ花」の8編。

 「哀れなもんだな、女性というのは」

 「どうしてそう気の毒がるんだ?」

 「どうしてかって? まあ、考えてもみろよ。あんなに美しい女性が十一年間も子どもを産みつづけたんだぞ、まさに地獄じゃないか。若さも、美しさも、成功への希望も、華やかな生活についての詩的な理想も、なにもかも犠牲にして、あの生殖というおぞましい法則にしたがったんだ。ふつうの女性をたんに子どもを産むための機械に変えてしまう、あのおぞましい法則にね」(p.211)

以下、各短編について。

「ラテン語問題」。若き日の「ぼく」はラテン語教育で実績を上げているロビノー学院に入学、そこの自習監督ピグダンと懇意になった。いたずら好きの「ぼく」はピグダンを女と引き合わせる。当時のラテン語教育が現代日本の古典教育と類似性があって驚く。日本では数年前から古文・漢文不要論争が出てきている。ラテン語も古文・漢文も生きていくには不要だった。本作が優れているのは、ラテン語問題を踏まえつつ気の利いたオチで話を締めくくっているところだろう。学問と実学の乖離を鋭く突いている。ピグダンが日本のポスドク問題を体現していて面白い(ただし、ピグダン自身はポスドクではない)。

「オルラ」。セーヌ川を望む邸宅に住む「わたし」が体調を崩す。色々あって精神異常を疑うようになるが……。読んでいくとこれは狂人の日記で「信頼できない語り手」なのだが、作者がそれを意識したのかは分からない。ただ、現代の読者は本編で起きた怪奇事件が、本当に起こったかどうか疑うよう調教されている。その曖昧さに居心地の悪さを感じてしまうのだ。おそらく当時の読者は「信頼できない語り手」とは考えず、書かれたことをべたに受け取っていたのだろう。そう読めるのが羨ましく思う。

「離婚」。弁護士の元に男が離婚訴訟の依頼をしにやってきた。男は公証人をしていた頃、持参金250万フラン(約25億円)の女性と会う。それから……。確かに弁護士の助言は実践的だし、僕だってこの程度のことでは離婚しないだろう。離婚するということは、持参金を返却するということなのだから。むしろ、離婚する気になった男のほうがおかしい。この世でもっとも大切なのは金じゃないか。あるいはこの感覚は現代的すぎるのかもしれない。いずれにせよ、僕も25億円の女と結婚したい人生だった。

「オトー父子」。地主のオトーには24歳の息子がいる。父オトーは狩猟に出た際、事故って自分の腹を撃ち抜いてしまった。彼は今際の際に息子に頼みごとをする。それはルーアンにいる愛人に上手く取り計らうようにすることだった。息子が父親の愛人を継承する話ってフィクションではよくあるが、実際はどうなのだろう? ちょっと気持ち悪くないだろうか。そこには愛人を通した近親相姦の匂いすらある。とはいえ、これはエディプスコンプレックスの変形と言えなくもない。死んだ父の愛人を奪うことは、父を殺して母を娶る「父殺し」に通じるものがある。

「ボワテル」。ボワテルは子供を養うために汚れ仕事をしている。彼には14人の子供がおり、家に残っているのは8人である。ボワテルが汚れ仕事をしているのは、元々は両親に結婚を反対されたからだった。その顛末が語られる。黒人に対する偏見が戯画化されているが、19世紀のフランスで両親があんな風に黒人を認識しているのはさすがにないだろう。いくら何でも無知すぎないか? とはいえ、描かれているのは苛烈な人種差別ではなく、田舎者の素朴な偏見である。そこが同時代のアメリカと決定的に異なっているのだった。

「港」。マルセイユの港。4年におよぶ遠洋航海から船が帰ってくる。乗組員たちはめいめい娼婦を買うのだった。その一人デュクロは敵娼になった娼婦から衝撃の事実を告げられる。フィクションとしてはよくある話である。面白いのは娼婦がデュクロの名前を出してから両者とも警戒する流れで、読んでいるほうとしても俄然盛り上がってくる。とはいえ、やはりよくある話だ。

「オリーヴ園」。プロヴァンス。ヴィルボワ神父は若い頃、性悪女にはまって痛い目を見た。ある日、神父の元に浮浪者じみた男がやってくる。彼は神父と性悪女の間にできた子供だった。過去が復讐しにくる話で、神父の受難も自業自得と言えそう。自分に息子がいたうえ、そいつは手のつけられない悪党になっていた。男としてこんなにショッキングなことはない。人生とは遺伝と環境によって決まる。そういう意味で本作は自然主義文学らしかった。

「あだ花」。マスカレ伯爵夫人が夫に不満をぶちまける。自分は出産という責め苦から解放され、他の女性たちと同じように社交界で生きていきたい、と。さらに、伯爵夫人は衝撃の告白をするのだった。日本では2007年に柳澤伯夫厚生労働大臣が「産む機械」発言をして物議を醸した。その「産む機械」が19世紀のフランスで既に文学のテーマになっているのに驚いた。結局は人間も動物の一種でしかなく、生殖には女の腹を借りるしかない。社会が文明化されればされるほど、その動物的な部分が枷になるのだ。先進国で軒並み出生率が下がっているのも頷ける。

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