海外文学読書録

書評と感想

ギ・ド・モーパッサン『脂肪の塊/ロンドリ姉妹 モーパッサン傑作選』(1880,1884)

★★★

日本オリジナル編集の短編集。「聖水係の男」、「『冷たいココはいかが!』」、「脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)」、「マドモワゼル・フィフィ」、「ローズ」、「雨傘」、「散歩」、「ロンドリ姉妹」、「痙攣」、「持参金」の10編。

こうして最初の一歩が踏みだされた。ひとたびルビコン川を渡ってしまうと、もう遠慮する者はいなかった。バスケットは空になった。それでも、フォアグラのパテ、雲雀のパテ、牛の舌の燻製、クラサーヌ種の洋梨、四角形のポン=レヴェック産チーズ、小型の焼き菓子がまだ残っていたし、酢に漬けた胡瓜や玉葱の詰まった取っ手つきカップもあった。あらゆる女の例にもれず、ブール・ド・スュイフも生野菜が大好物だったのだ。(Kindleの位置No.499-506)

良かったのは、「脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)」、「散歩」、「ロンドリ姉妹」の3編。

以下、各短編について。

「聖水係の男」。車大工の夫とその妻の間に子供が産まれる。子供はジャンと名付けられるのだった。ところが、ジャンは5歳のときに軽業師の一行についていって行方不明になる。夫婦はジャンを探しにパリに出るのだった。こういう話って再会して当たり前という雰囲気があるけれど、本作は両親が成長した息子を識別する理屈が奮っていた。確かに血の繋がった親子なら息子に自分の面影を見るだろう。1865年にはメンデルの法則が発見されているし、遺伝というものを意識せざるを得ない。

「『冷たいココはいかが!』」。オリヴィエおじさんが臨終を迎えた。遺言書を読むと、ココ売りに百フラン渡すよう指示している。原稿にその理由が書かれていた。験担ぎにしては珍しいけれど、宗教に伝統宗教新宗教があるように、迷信にもその類の区別があるのかもしれない。人生の節目節目に現れるココ売り。それにしても、当時はココなんていうイカした飲み物があったとは面白いね。

「脂肪の塊(ブール・ド・スュイフ)」。プロイセン軍によってフランスのルーアンが占領される。食料にも事欠くなか、10人の男女が乗合馬車ルーアンを脱出するのだった。その中にブール・ド・スュイフ(脂肪の塊)というあだ名の肥満した娼婦が乗り合わせていて……。乗客たちがあまりに恩知らずでのけぞった。空腹のときには娼婦から飯を分けてもらっていたのに、いざ自分たちの利益が絡んだとなったらあっさり人身御供にしている。娼婦はなかなか立派な人物なのだけど、乗客たちはその本質に目を向けようとしない。職業だけを見て蔑視している。最後、馬車の中で食事のシーンを変奏するところが秀逸だった。

マドモワゼル・フィフィ」。フランスの町を占領したプロイセン軍将官たちは現地の城館を根城にしていた。将官たちの中に一人横暴な貴族がおり、彼はマドモワゼル・フィフィとあだ名されている。ある日、将官たちは地元の女たちを呼び寄せるが……。占領された側の意地の張り方がすごかった。僕は愛国心よりも自分の命のほうが大切だからこういうことはできないだろうな。そしてラスト、娼婦から貴婦人にジョブチェンジするところはフィクションの魔法といった感じだ。

「ローズ」。花祭りのカンヌ。若い婦人のマルゴとシモーヌが馬車で付近を通りかかる。やがて2人は「愛されること」について語り合うのだった。女装って見た目は擬態できるけれど、声でバレるんじゃないかな。あと、身長も低くないといけない。ところで、婦女暴行のために女装するのって現代の犯罪者に通じるものがあって面白い。この手の発想は昔から変わってないということか。

「雨傘」。しまり屋のオレイユ夫人は夫にも倹約を強いていた。ある日、夫が新しい傘が欲しいと言い出す。紆余曲折のすえ、18フランの絹の傘を買うのだった。ところが、帰宅すると絹地に焼け焦げた跡がついていて夫婦喧嘩になる。オレイユ夫人が保険会社の人に話した内容は事実なのだろうか? だとしたら夫はとんだとばっちりである。それにしても、当時の傘って高いんだなあ。デパートの特売品でも8500円するらしい。そして、絹の傘は2万円もする。コモディティ化は大切だと思った。

「散歩」。ラビューズ商会のルラは40年間会計係を務めていた。ルラは資力がないため結婚できず、生涯を独身で通している。ある日、散歩したルラは馬車で通り過ぎるカップルを眺め、自分の人生に思いを馳せる。ルラは今風に言えば弱者男性で、金がないからろくに恋愛もできず、40年も無味乾燥な生活を送っている。ひたすら家と会社を往復する日々。代わり映えのしない毎日は昭和のサラリーマンのようだ。これが現代だったらルラは無差別殺人に及ぶだろうけど、19世紀だから自殺で幕を閉じている。フェミサイドが取り沙汰されている昨今、古典でありながらも極めてアクチュアルな短編ではなかろうか。

「ロンドリ姉妹」。ピエールとポールが一緒にイタリア旅行に行く。2人は列車の中でイタリア女と知り合いになった。イタリア女は彼らについていきたいという。やがてジェノヴァに到着し、ホテルに投宿する3人。イタリア女はフランチェスカ・ロンドリという名前で……。最初はフランス人とイタリア人の異文化コミュニケーションみたいな感じだったけれど、終わってみればだいぶ遠いところに着地した。イタリア女は言葉がろくに通じないうえ、ピエールの一人称視点だから何を考えてるのかよく分からない。だから種明かしで驚いてしまった。また、それに輪をかけているのがタイトルの意味で、僕はてっきり2人だと思っていたから衝撃的だった。ラストのピエールはしょうもない。

「痙攣」。父娘が湯治にやってくる。父のほうは神経性のチックを起こしていた。父によると、娘は原因不明の不調に悩まされているという。父が事情を物語る。語り手が父娘のことを「まるでエドガー・ポーの小説に登場する人物のように見えた」と表現している。そしたら父の語る物語がまさにポーみたいで笑ってしまった。元ネタは「早すぎた埋葬」【Amazon】だろうか?

「持参金」。公証人のシモン・ルブリュマン氏と金持ちのジャンヌ・コルディエ嬢が結婚する。ジャンヌには30万フラン(約3億円)の持参金があった。夫婦は一緒に旅行することに。その際、夫の指示でジャンヌが持参金を全額持っていく。他愛のない小品だけど、現金社会はホント駄目だと思った。詐欺の標的にされやすいから。今だってあの手この手で人々が騙されている。それにしても、3億円もの大金よく持ち歩く気になったよなあ。ジャンヌの度胸にびびる。