海外文学読書録

書評と感想

カルロス・フエンテス『聖域』(1967)

★★★

父親のもとで暮らしていたギリェルモは、母親にしてメキシコの大女優であるクラウディア・ネルボに引き取られる。青年になったギリェルモは母親への愛情を募らせつつ、彼女から経済的支援を受けて生活していた。ギリェルモは自身の境遇をユリシーズの物語に重ねている。そして、最終的に彼は犬になるのだった。

あるのは変容だけだ。暑い朝がぼくたちを取り囲み、ぼくたちを拒絶する。ぼくたちの沈黙では、世界全体のゆるやかで、人を消耗させるこの熱気には抗すべくもない。最初のあの夜のように、彼女の方を見ないで車を走らせる。ふたたび町が。同じ町だが、いまはマグネシュウムの閃光に変わっている。灰色の醜い町が、太陽に白く焼かれ、現像されたネガに変わっている。車を掃除する羽ぼうきにカモシカの皮、宝くじの券、灯の消えている張出し屋根、ビールとラム酒の大きな宣伝。高い家、低い家。すべてがまさに崩れようとしている。(p.103)

語り手のギリェルモが自身のエディプス・コンプレックスを神話と絡めて物語っている。語り口はわりと幻想的というか、どこか詩情を感じさせるような代物で、仮に僕が私小説を書くとしたら本作をお手本にするかもしれない。ギリェルモは母親に養われている身で未だ何者にもなっていないのだが、にもかかわらずこんな大袈裟に自分語りをしていて、その根性はちょっとすごいと思った。こういう肥大化した自意識は若者の特権だろう。母親への愛情を包み隠さず表現するところも僕からしたら異常で、ラテン系の男は母親を大切にし過ぎると感心する。僕なんか高校生の頃から両親とはあまり会話をしなくなったから。しかもギリェルモの場合、母親への愛情は家族愛ではなく、ほとんど恋愛みたいな感情で、彼女の服をこっそり着ているところがやばい。フロイト先生にお出まし願いたいところである。

ラテンアメリカの富裕層ってみんなヨーロッパ被れで、その反動なのかアメリカを必要以上に見下しているような気がする。なぜだろう? やはりヨーロッパが元宗主国だからだろうか? アメリカも元々は自分たちと同じ植民地だから、いくら経済的に発展してもリスペクトできないということか。本作の場合、女優のクラウディアがハリウッドを毛嫌いしてヨーロッパで仕事をしているところが面白いし、さらにアメリカを投機の場としか見なしていないところも歪んでいて面白い。ヨーロッパのほうがアメリカより文化的に優れているとか、まさかそんな19世紀的な価値観を本気で信じているわけでもあるまい? まあ、現代日本でもたまにそういう人を見かけるので、何が人のコンプレックスを刺激するかは分からないが。

「物語は予期された結末を迎えない。ペネロペとテレマコスは、故郷に戻ったユリシーズの冒険譚に耳を傾けるだけでは満足しなかった。だからぼくたちは、想像せざるを得ない。つまり、母と息子は夜毎、イタカの荒廃した王国で満たされぬ思いを胸にひめて、あの夢想家にして放浪者の歌声に耳を傾ける。彼の果てしない放浪遍歴の物語は、二人に惨めな思いを抱かせる。二人はそれに加わることも、その中を自由に動きまわることもできない。」(p.249)

ギリェルモが自分語りをするにあたって、神話を微妙に読み換えているところがツボだった。冒頭ではセイレーンの逸話が語られているが、そこでは何とセイレーンが歌をうたわなかったことにされている。ユリシーズがマストに体を縛りつけて誘惑に耐えたのは嘘っぱちで、本当は歌を聞かなかった。この辺の発想力も、私小説を書くうえで重要なのだと思う。