海外文学読書録

書評と感想

スティーヴン・ミルハウザー『夜の声』(2015)

★★★

短編集。「ラプンツェル」、「私たちの町の幽霊」、「妻と泥棒」、「マーメイド・フィーバー」、「近日開店」、「場所」、「アメリカン・トールテール」、「夜の声」の8編。

階段のてっぺんで、野球帽をフックに掛ける。地下室のドアを閉める。キッチンで懐中電灯を引出しに戻す。リビングルームを通り抜け、階段をのぼり、寝室のドアを開ける。夫は仰向けにベッドに横たわっている。夫は小さな男の子の鼻をしている。彼女はローブを脱いで上掛けの下にもぐり込む。暗い安らぎが、自分の中で、小石が底に並ぶせせらぎのように流れているのが感じられる。彼女は目を閉じ、死者のように眠る。(p.86)

原書は16編収録。翻訳本では『ホーム・ラン』と2冊に分割して出版されている。

以下、各短編について。

ラプンツェル」。女魔法使いによって塔に閉じ込められたラプンツェル。そんな彼女を王子が助けようとする。よくある童話の語り直しである。こういうのはやはり登場人物に内面が付与されるところが面白い。王子はロマンティックな救出劇を夢想しているし、ラプンツェルは王子と結婚して宮廷に入るのを逡巡している。そして、女魔法使いはラプンツェルを実の娘のように大切に思っていた。物語は原典からさして逸脱することもなく、むしろ原典が何を表現しているのか鮮明にしている。

「私たちの町の幽霊」。私たちの町には幽霊がいる。語り手がケーススタディーや仮説を披露していく。幽霊についてどう思うか、彼らの存在をどう捉えるかは個々人によって違いがあり、統一的な見解はない。本作の断章形式には多様性が見て取れる。そして、それこそが町なのだろう。個人的には幽霊とはメメント・モリだと思っており、彼らの存在を意識することで「死」が脳裏をよぎる。だからこそ恐怖を感じる。つまり、幽霊そのものが怖いのではなく、背後にある「死」が怖いのだ。世間の人たちがホラー映画を好むのは、「死」がもたらすスリルを味わいたいからである(ジェットコースターやバンジージャンプも同様)。そこはちょっと理解できない。

「妻と泥棒」。就寝中の夫婦。妻が階下で足音を聞いた。彼女は泥棒が入ってきたと思い込む。泥棒を通じて夫婦関係を照射するところが本作の面白ポイントだろう。泥棒はおそらく妻が無意識のうちに抱えた不安で、ひびの入った日常を修復しようという心の動きを反映している。一見して何の変哲もない夫婦もメンテナンスが必要なのだ。かつてジョン・アップダイクアメリカの中産階級に焦点を当てていたけれど、本作はその末裔ではなかろうか。

「マーメイド・フィーバー」。6月。町の公営海水浴場にマーメイドの遺体が打ち上げられた。町はその遺体を展示する。本作の何がすごいって、マーメイドをめぐる狂騒が町単位で完結しているところだ。普通だったら全米どころか世界中が大騒ぎになるだろう。ところが、そこを敢えてミニマムサイズで、地元民の意識の変容を描いている。

「近日開店」。大都市から町に引っ越してきたレヴィンソンだったが、その町は急速に変化していく……。物事がエスカレートしていく様子を書かせたらミルハウザーの右に出る者はいない。『マーティン・ドレスラーの夢』【Amazon】なんかはその極北だし。やはりこういうのは長編で読みたい。

「場所」。丘の上に「場所(ザ・プレイス)」と呼ばれるパワースポットがあり、町の人たちはそこに何となく惹かれていた。「場所」は時間と空間を超越していて、子供だった語り手がおっさんになっても変わってない。そして、何の変哲もない場所なのに町からは浮いている。こういう何らかの磁場としか言えない「場所」をあるがものとして描いていくところが面白い。僕の場合、墓地に似たような磁力を感じる。

アメリカン・トールテール」。ポール・バニヤンと弟ジェームズ・バニヤンの一騎打ち。こういうのを読むと、物語の起源は近所の噂話ではないかと思えてくる。どの共同体にも一人はいる変わった人物の噂。そして、どんな人物でも物語になった途端プラスにもマイナスにも誇張され、ある種の英雄性を獲得するのだ。

「夜の声」。旧約聖書のサムエル。それを教師から聞いた少年。歳とって作家になった元少年。3つの物語がサイクルする。結局のところ、夜の静寂こそが物語に最適なのだろう。だから古代の人たちは夜中に焚き火をしながら物語を聞いていた。現代人の僕も物語を読むのはだいたい夜だし、やはり静寂こそが重要だと感じる。