海外文学読書録

書評と感想

豊島圭介『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(2020/日)

★★★

1969年5月13日。東京大学駒場キャンパス900番教室で、三島由紀夫と東大全共闘の討論会が行われた。教室には1000人を超える学生たちが集まっている。当時、その様子をTBSが取材していた。三島は壇上で芥正彦らと討論する。

三島由紀夫については陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での事件が脳裏にあったので、あんな感じの物騒な雰囲気なのかと思いきや、意外にも討論会は和やかだった。彼はユーモアを交えたスピーチで聴衆を笑わせている。一方、全共闘側もきちんとディベートのルールを守っていて、両者は対立関係にありながらも概ね紳士的にコミュニケートしていた。

全共闘も三島も、日本人にとっての永遠のテーマを追求している。つまり、どうすれば社会を変えられるのか、という問題だ。賢い人だったら、「選挙に出て政治家になれ」と諭すだろう。しかし、それは現実的ではない。たとえ政治家になっても地位を駆け上がるのに時間がかかる。できることなら手っ取り早く社会を変えたい。そんなわけで、全共闘は組織的な運動に賭けた。そして一方の三島も、楯の会を結成して反対側からアプローチしている。左翼と右翼、どちらも非合法によるショートカットを目指したのだ。面白いのは両者に共闘の可能性があったことで、三島は天皇さえ神輿にかつげば手を組むのもやぶさかではなかったという。全共闘の本質は反米愛国運動であり、左右の思想は問題ではなかった。これが三島の本音かどうかは分からないけれど、この期に及んで共闘を持ち出すあたり、なかなか食えないと思う。

当初はエロチシズムに耽溺していた三島が他者を求め、積極的に政治活動をしていく。これって偉大な作家にありがちなパターンかもしれない。たとえば、村上春樹も当初は自閉的だったけれど、いつしか表に出て政治的な発言をするようになった。デタッチメントからコミットメントへ。成熟とは自己の檻から飛び出し、他者と関わっていくことなのだろう。他者は思い通りにならない。それどころか、自己と対立する。だからこそ他者の集積である社会に身を投げ出し、自己と他者の融和を図る。昨今のタコツボ化したネット民とは大違いである。

平野啓一郎によると、三島は認識と行動の二元対立を重視していたという。ところが、三島も全共闘も行動したがゆえに敗北していった。結果的には、認識していただけのノンポリが無傷で生き残った。しかし、これは行動そのものが問題なのではない。行動の方法が間違っていたのだ。おそらくは両者とももっと上手くやれるルートがあったのだろう。最近のフィクションではループものが流行っているけれど、これは数ある行動から正解を模索する思考実験的SFで、「人間は最良の選択をすれば勝利できるのだ」という信念がある。こういうフィクションが生まれるのも最良の選択をすることが現実に難しいからで、行動を放棄せずにハッピーエンドを迎えることの大変さを物語っている。ただ、残念なことに我々の世界にはループなんて存在しない。自分が起こした行動はやり直しがきかず、だからこそ多くの人々は無残に敗北していく。三島と全共闘の末路に人生の本質が垣間見える。