海外文学読書録

書評と感想

大島渚『飼育』(1961/日)

飼育

飼育

  • 三國連太郎
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★★★

太平洋戦争末期。ある山村に米軍機が墜落、搭乗していた黒人兵士(ヒュー・ハード)が村に監禁されることになった。その村は地主の鷹野(三國連太郎)が物事を差配している。ところが、黒人がやってきてから村人同士で揉めるようになった。

原作は大江健三郎の同名小説

戦時中のドロドロした村社会を描いた映画だが、東北の限界集落は今もこんな感じだと思う。たとえば、医者いじめで有名な秋田県上小阿仁村なんかが典型例だろう。村社会とは異物を排除する社会であり、外から来た者は肩身の狭い思いをすることになる。現代だったら逃げ出すことも可能だが、戦時中ではそれも叶わない。本作は田舎の醜悪さにスポットを当て、その閉塞感を余すことなく表現したところが良かった。

本作における異物は2種類いて、それは黒人と疎開者だ。黒人はあからさまに厄介者扱いで、本音では村に留めておきたくない。村人は軍部の顔色を伺って仕方なく捕虜にしている。一方、疎開者は黒人ほど露骨に差別されていないものの、それでも村人から何かと揶揄されて居心地の悪い目に遭っている。東京から疎開してきた若い夫人は地主から色目を使われていた。彼女は少ない配給ではやっていけないから、地主に着物を売らなければならない。生存に対する負い目が権力関係の綱引きになっている。筒井康隆は戦時中に学童疎開した際、農家の子供らにいじめられたそうだけど、本作を観るとそういう土壌は確かにあると思う。とにかく、異物に対して風当たりが強い。まさに日本の原風景といった感じである。

村で起きた盗難や逃亡が黒人のせいにされてしまうのは苦笑を禁じ得ないけれど、責任を誰かになすりつけるのはもはや習い性なのだろう。遠い場所での戦死ですら黒人がもたらした災難とされるのだから問題は根深い。共同体において「穢れ」がどのように発生するのか、そのメカニズムが垣間見えて興味深かった。

黒人を殺害してまもなく終戦を迎えるが、村人たちは負けたという自覚がない。閉鎖空間でひたすら人間関係に明け暮れていたため、戦争が終わっても実感が湧かないのだ。大部分は情報を統制していた政府の責任だが、一方で小状況にかまかけて大状況を把握しようとしない村人の怠慢も浮き彫りにされていて、彼らにまったく責任がないとも言えない。この辺は現代のひきこもりに通じる問題で、ネットの人間関係にのめり込むあまりリアルの生活が疎かになるのと同根である。本作は近視眼的な人間の滑稽さをよく捉えている。

犯罪を隠蔽してすべてを丸く収めるところも村社会の特徴で、こういう事なかれ主義のアンチテーゼが近代に生まれた探偵小説なのだろう。アガサ・クリスティーや横溝正史の小説がしばしば田舎を舞台にするのも偶然ではない。田舎に隠蔽体質があるからこそ、それを解き明かす探偵が光り輝くのだ。村社会って現実で関わるのは絶対に嫌だが、フィクションを通して遠目で見るぶんには面白い。