海外文学読書録

書評と感想

ジョシュア・オッペンハイマー、クリスティーヌ・シン『アクト・オブ・キリング』(2012/デンマーク=インドネシア=ノルウェー=英)

★★★

インドネシア。名うてのプレマン(やくざ・民兵)だったアンワル・コンゴは、1965年のクーデター期に共産主義者と目した人たちを1000人ほど虐殺していた。そんな彼は現在、英雄として何不自由ない生活を送っている。そこへ外国の映画監督がやってきて、虐殺を再現した映画を撮ることに。アンワルたち加害者をキャスティングして撮影に取りかかる。

映画撮影を名目にして虐殺者たちの肖像に迫ったドキュメンタリー映画

加害者たちが虐殺について屈託なく語っているので、こいつらには罪悪感はないのか? と疑問に思いながら観ていたのだけど、話が進んでいくうちにその辺のメカニズムが明らかにされていて、人間の弱さを思い知った。つまり、彼らのなかには虐殺を正当化する理由があるのだ。たとえば数百人殺したある男は、政府の作ったプロパガンダ映画のおかげで罪の意識を持たずに済んでるし、また別の男は、アメリカ大陸で白人がインディアンを殺した、そういうレベルの話だと語っている。自分たちは勝者であり、歴史は勝者が作るものである。彼らはそうやって自己正当化を図っているのだ。しかし、これって逆に考えてみれば、何か理由がないと罪悪感に押し潰されてしまうのだろう。平和ボケした僕からしたら、「盗人にも三分の理」にしか見えないけれど、人間にはその「三分の理」が不可欠なのだ。理由もなしに人を殺せるのはサイコパスだけである。我々は理由さえあれば何でもできる生き物だと分かって悲しくなった。

針金で共産主義者の首を絞めて殺したことを武勇伝のように語っていたアンワル。そんな彼が、撮影で自分が被害者役を演じた際、同様のことをされて耐えきれなくなるところが印象的だった。そうやって疑似体験することで被害者の気持ちが分かったのである。結局のところ、彼が人を殺しても平気でいられたのは、想像力がなかったからだ。目の前の他者に共感する能力。馬鹿みたいな話だけど、世の中にはそういう人が大勢いて、だから虐殺なんて野蛮なことがまかり通っている。他者の痛みを知ることが、人間の身につけるべき最低限の教養ではないか。このシーンを観て、想像力の重要性を痛感した。

どうすれば想像力が身につくかと言えば、そのひとつとしてフィクションに触れることが挙げられる。アンワルは西部劇やギャング映画が好きで、殺しの際にはそれらを参考にしていた。しかし、もし彼がホロコーストを題材にした映画を観ていたらどうなっていただろう? もっと多様な映画に触れていたらどうなっていただろう? この世界には自分と違った立場の他者がいて、その人たちと共存していく必要がある。自分がマイノリティと認定されて迫害されたら嫌だな、みたいに想像を働かせる。共感を育む装置としてのフィクション。我々が本を読み、映画を観ることは、思ったよりも重要なのかもしれない。

なお、本作の姉妹編に『ルック・オブ・サイレンス』がある。