海外文学読書録

書評と感想

山本裕介『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(2020)

★★★

フリーターのえりぴよ(ファイルーズあい)は、岡山県で活動する「ChamJam」のメンバー舞菜(立花日菜)の熱狂的なファンだった。ChamJamは7人組の地下アイドルグループで、舞菜はその中でも人気最下位のメンバーである。えりぴよは握手会で舞菜に自分の思いを伝えようとするも、気を使いすぎるあまりに誤解を生んでいる。一方、舞菜は舞菜でえりぴよのことを気にかけていた。

原作は平尾アウリの同名漫画【Amazon】。

アイドルマスター』【Amazon】や『ラブライブ!』【Amazon】、『Wake Up, Girls!』【Amazon】など、アイドルアニメはたくさんあるけれど、ファンの側を中心にしたアニメは今までなかったと思う。ファンは一途にアイドルを応援し、アイドルは期待に応えるべく努力する。目指すは日本武道館でのライブだ。本作はファンもアイドルも出てくる人物が軒並み善人で、総じてやさしい世界なのが良かった。目立って性格が悪いのは、最終回で登場した「めいぷる♡どーる」のメイくらいである。しかし、ほとんど最後までやさしい世界が展開しているので、気晴らしに見るアニメとしてはちょうどいい。随所にギャグが入っていることもあって、ストレスを感じることはなかった。

ただ、AKB商法が何の屈託もなく能天気に描かれていたのにはどん引きした。AKB商法とは、CDに握手券や投票券を付けることで、ファンに同じCDを何枚も買わせる商法のことである。ご多分に漏れず、えりぴよも「推し」と握手するためにCDを何枚も買っている。ファンもアイドルも、この搾取的なシステムに疑問をおぼえていないところが不気味だ。僕はこの部分がずっと引っ掛かっていまいち乗り切れなかった。これではえりぴよがホストに貢ぐバカ女みたいだし、そもそも大量に買ったCDはどう処分しているのかも気になる。出てくる人物はみんな善人なのに、ファンとアイドルの間にえげつない金銭問題が横たわっていて、正直かなりグロテスクだった。

当初はえりぴよを見て、報われない片思いをしてるのではないかと思ったけれど、「推し」の幸せを自分の幸せのように思えるところが尊く、アイドルファンとは究極の利他主義者なのだと得心した。たとえるなら、子供を応援する親のような心境だろうか。推しが武道館に行ってくれたら死んでもいい。僕は他人にここまで入れ込むことはできないけれど、はまったら相当はまる世界であることは理解できた。

えりぴよも舞菜もお互いが気を使っているせいで、誤解が生じているところが微笑ましい。顔を合わせるたびに「相手に負担がかかる」と逡巡し、なかなか踏み込んだ言動ができないでいる。それは傍から見るとやきもきするけれど、ファンとアイドルの線引きをはっきりさせ、その制約の中で擬似的な恋愛関係をまっとうしているのだ。このようにファンが節度を守っているところは特筆すべき点で、本作はファンとアイドルの理想的な関係を描いている。

主人公のえりぴよが女性なのは、『私に天使が舞い降りた!』と同じく、男性の欲望を円滑に代行するためだろう。これがむさ苦しいおっさんだったらドラマが生々しくなってしまう。今後、こういう配役がおたくアニメで増えていくのかもしれない。

ハサン・ブラーシム『死体展覧会』(2009,2013)

★★★★

短編集。「死体展覧会」、「コンパスと人殺し」、「グリーンゾーンのウサギ」、「軍の機関紙」、「クロスワード」、「穴」、「自由広場の狂人」、「イラク人キリスト」、「アラビアン・ナイフ」、「作曲家」、「ヤギの歌」、「記録と現実」、「あの不吉な微笑」、「カルロス・フエンテスの悪夢」の14編。

「常に心してもらいたいのは、我々は手当たり次第に殺して人々を怯えさせることを目的とするテロリストではないし、金目当ての狂った殺し屋でもないということだ。狂信的なイスラーム集団や、非道な政府の諜報機関といった下らない連中とは、我々は一切関わりがない。(p.8)

アメリカ文学者の藤井光が訳しているから、てっきり原語は英語なのかと思っていた。ところが、元はアラビア語で書かれており、それが英訳されて世界に広まったらしい。翻訳は世界文学になるための必要条件だと痛感した。

以下、各短編について。

「死体展覧会」。「彼」が「君」に対して仕事の説明をする。それはクライエントを殺害し、その死体を芸術的に展示することについてだった。自分たちはテロリストじゃないと言いながらも、やってることはテロリストそのもので首をひねってしまう。死体を使った芸術と称しているものの、これって治安の悪い地域で見られる晒し上げではなかろうか。あるいは、それを糊塗した表現なのかもしれない。ともあれ、のっけからパンチの効いた短編で驚いた。

「コンパスと人殺し」。マフディーの兄アブー・ハディードは暴虐な人間として恐れられていた。無法者の世界が描かれていて衝撃的だった。そこら辺の人に平然と暴力を行使しているけれど、これってアラブ世界の実情を反映しているのだろうか。今まではテロリストが人々を抑圧的に、かつ一定の規律で支配していたのだと思っていた。しかし、本作はそういった偏見を覆すものだった。暴力的な人間にも多様性があるというか。あるいは、ディストピアの中にもうひとつディストピアが存在しているというか。

「グリーンゾーンのウサギ」。ハッジャールとサルサールは、暗殺の仕事をすべく、バグダッドの北にある別荘に待機していた。十字軍の時代にアサシン派と呼ばれる暗殺集団が存在していたけれど、イスラム世界にとって暗殺とは、この頃からの伝統芸なのかもしれない。ナイフが爆弾に変わっただけなのだろう。それにしても、副大臣にまつわる逸話はおっかない。少し前までサダム・フセインが支配していたのを忘れていた。

「軍の機関紙」。10年前に自殺した男が、裁判官に向かって己の罪を語る。軍の機関紙に勤務していた彼は、兵士の短編小説を盗作して名声を築いていた。『世にも奇妙な物語』【Amazon】みたいな不思議な話で、死んだはずの兵士から大量の短編小説が送られるところはホラーっぽい。死者による語りといい、非現実的な内容といい、こういう小説は大好きだ。

クロスワード」。ジャーナリストの「ぼく」が、親友にしてクロスワードパズルの名人マルワーンについて語る。詩的な回想を通して、戦時中の不穏な日常が描かれるところが何とも言えない。爆弾テロが当たり前のように起こっている。これが21世紀の話なのだから恐ろしい。

「穴」。襲撃から逃げてきた「僕」が穴に落ちる。そこには老人が住んでいた。老人は自分のことをジン(精霊)と名乗り、アッバース朝のバクダッドで暮らしていたという。最近見た『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』【Amazon】が、似たような都市伝説を扱っていたなと思った。本作の穴は日常にぽっかり開いた異界で、独自のルールを持っている。どうやら主は代替わりしていくらしい。過去・現在・未来が並列して存在しているのが魅力的だ。

「自由広場の狂人」。政府の方針で金髪の2人の像が撤去されることに。その2人はかつてこの地域に奇跡を起こしていた。こういう伝説の類は面白いね。たとえば以下の文章。「金髪の二人が姿を見せるようになってから二年もしないうちに、神話や伝説のなかで奇跡が起きるように、あらゆる願い叶った。行かず後家は結婚し、泥だらけの路地は舗装され、慢性的な病はことどとく治り、それまでは情けない成績しか取れなかった子供たちのほとんどが試験に合格したのだ。なかでも最大の奇跡は、人々の支持を受けた英雄的な将校たちによるクーデターで王政が打倒されたことだった。」(p.91) 冷静に考えると、金髪の2人とは何の関係もない、ただの偶然なところが笑える。

イラク人キリスト」。キリスト教徒のダニエルは、兵士仲間から奇跡を起こす男として信頼を寄せられていた。退役後、ダニエルは……。実は死者が語り手という仕掛けも驚きだけど、もっとすごいのが終盤でダニエルが遭遇する危機だ。これぞ中東、これぞイラクという感じがする。ところで、アブラハムの宗教って来世という概念はあるんだっけ?

「アラビアン・ナイフ」。「僕」と仲間たちはナイフ消しの術ができた。一方、友達のジャアフルはクウェート戦争で両脚を失って車椅子生活をしている。このナイフ消しが種も仕掛けもあるマジックではなく、本当に消えてるところがフィクションならではでいい。正真正銘の奇跡が当たり前のように存在していて、その奇跡がジャアフルの死を劇的にしている。我々からすれば奇跡も暴力も非日常だけど、それが日常と化した世界で起こる不条理が何とも言えない。

「作曲家」。「僕」の父は有名な作曲家で、政府高官と結びついていた。そんな父が無神論者になり、神や預言者を中傷する歌を作るようになる。イスラム圏は信仰が暴力によって強制されているから恐ろしい。無神論を公言すると処刑されてしまう。つくづく血の気の多い宗教だと思う。

「ヤギの歌」。独裁政権が終わった後に設立された〈記憶ラジオ〉。そこにめいめいが自分たちの物語を聞いてもらおうとやってくる。彼らはまずサンプルの物語を聞かされるのだった。物語で重要なのは真に迫っているか、そして語り口だという。その点で言えば、このサンプルは申し分がなく、参加者のハードルは上がったと思う。それにしても、イラクって独裁政権下でも、その後の時代でも、命を全うするのが難しそうで戦慄する。ここで生まれても生き延びる自信がない。

「記録と現実」。イラクからの難民が、スウェーデンの難民受け入れセンターで身の上話をする。彼は救急車の運転手だったが、テロ組織に誘拐されてビデオ出演させられることになった。以降、別の組織に売られていく。本当か嘘かは分からないけれども、イラクならこういうこともあり得ると思う。少なくとも語り口は真に迫っていたし、今まで読んだ短編もそんな感じだった。

「あの不吉な微笑」。男が朝目覚めると、顔がいまいましい微笑みになっていた。本作を読んで、サリンジャーの「笑い男」【Amazon】を思い出した。あと、『バットマン』に出てくるジョーカーもこの系統だろうか。笑顔の逆説的な不気味さは万国共通の感性なのだと思った。

「カルロス・フエンテスの悪夢」。イラクからオランダに保護申請したサリーム・アブドゥルフサインが、これを機にカルロス・フエンテスに改名する。彼はものすごい勢いでオランダ社会に順応していくが……。自殺とは文字通り自分を殺すことで、たとえ夢の中であっても、それが過去の自分であっても、その因果は巡ってくる。不条理な世界と幻想的な物語は相性がいい。

マーティン・スコセッシ『キング・オブ・コメディ』(1983/米)

★★★★

コメディアン志望のルパート・パプキン(ロバート・デ・ニーロ)は、自分に才能があると堅く信じていた。その彼が売れっ子コメディアンのジェリー・ラングフォード(ジェリー・ルイス)と強引に同じ車に乗り合わせ、自分の芸を見てくれと懇願する。ジェリーは社交辞令でそれをあしらうが……。

これは『タクシードライバー』と表裏一体の関係にある映画で、例によって一人の男の狂気を描いている。といっても、両者は扱う世界が対照的だ。70年代の『タクシードライバー』がベトナム戦争と結びついていたのに対し、80年代の本作はショービジネスの世界と結びついている。もっと言うと、本作はテレビを媒介とした高度消費社会を反映している。ベトナム戦争に高度消費社会。2作とも時代が要請した映画なのかもしれない。

有名人とは大衆に欲望される存在であり、有名人であらんと欲するルパートは、大衆から欲望されたいと願っている。彼は自分に才能があると信じ、きっかけさえあれば成功すると思い込んでいた。自宅にいるときはトーク番組に出演するという体の妄想に明け暮れ、独自の精神世界を作り上げている。ところが、現実の彼は名前すらまともにおぼえてもらえない卑小な存在だ。行く先々の人々にパンプキンやらポトキンやらと呼ばれ、一人前の男として扱ってもらえないでいる。思い込みが激しいルパートは、現代で言えば積極奇異型のASDみたいな性格だ。物事を自分の都合よく解釈すると同時に、やたらと行動的である。ASDの彼に社交辞令や婉曲表現は通じない。また、相手の心情を慮ることもできない。自分の精神世界から一歩も出ることなく、積極的に行動しては他人を悲劇に巻き込んでいる。

どん底で終わるより一夜の王になりたい」というのがルパートの願いで、奇しくもそれは果たされることになる。なぜルパートの芸が大衆に受けたのかと言えば、大衆は面白いものを面白がるのではなく、周囲が面白いと目したものを面白がる傾向にあるからだろう。これはラカン的な欲望と同じ構造である。つまり、すべての欲望は他人の欲望であり、みんなが欲しがっているから自分も欲しいのだ。ルパートの芸に話を戻すと、有名なステージに立つ人物は、それだけで面白いに違いないという信頼ができあがっている。この芸はみんなが面白がっているのだ、という暗黙の了解ができあがっている。名声が虚像を実像に作り変え、乞食を王様の地位にまで登らせる。このように本作は、高度消費社会の歪みを捉えていて興味深い。

「無敵の人」がメディアの寵児になるところは、『タクシードライバー』と同じである。本作も現代の英雄を扱った映画と言えるだろう。ただし、本作にはルパートの成功が本人の妄想かもしれないという一定の留保がある。僕はその説を採用しないけれども、ある程度解釈に幅を持たせているところが面白い。

マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』(1976/米)

タクシードライバー (字幕版)

タクシードライバー (字幕版)

  • ロバート・デ・ニーロ
Amazon

★★★★★

マンハッタン。不眠症に悩むトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)がタクシードライバーの職に就く。彼は悪徳に塗れた町の人々に苛ついていた。あるとき、選挙事務所を通りがかったトラヴィスは、そこで働くベッツィー(シビル・シェパード)に一目惚れする。彼女をデートに誘うも、失態を犯して振られるのだった。やがて娼婦のアイリス(ジョディ・フォスター)と出会い……。

狂気に染まっていくロバート・デ・ニーロと、退廃したマンハッタンの町並みが見事に調和していて最高だった。荒い色調の画面がどこかハードボイルドっぽいというか、フィルム・ノワール的な雰囲気がある。環境動画として一日中垂れ流しておきたいほどだった*1。こういう味わいは古い映画じゃないと無理だろう。観ている間の満足度が非常に高く、美しい映像は目の肥やしになった。

トラヴィスは冒頭から鬱屈した正義感を抱えていて、町の人々を洗い流す雨を欲している。ゴミ捨て場みたいな町を掃除したいと願っている。そこから徐々に自警団的な意識が醸成されていくのだけど、面白いのは彼が町の人間を見るときの目つきだ。何とかしてやりたいと思っているがありありで、特にタクシーのルームミラーに映る彼の目は、目だけで完璧に心情を語っていてすごみがある。この「目で語る」というのが本作の中核にあって、俳優がそれを見事に表現しているところは並じゃないと思った。

銃=男根というお決まりの図式を採用するならば、銃を所持していなかったトラヴィスは去勢された男である。それゆえに、退廃した町に対して無力だった。政治家に町の浄化を期待するしかなかった。ところが、そんな彼が銃を手に入れることで変貌する。体を鍛え、射撃の訓練をすることで、失われた男性性を回復する。トラヴィスがベトナムに従軍した元海兵隊員だったことに留意されたい。彼は軍隊というマチズモの世界に回帰することで、このアスファルトジャングルで生き抜く力を手に入れたのだ。戦場とは正義と狂気が隣接する危うい世界であり、それがマンハッタンという日常に移し替えられることで、彼が英雄になるという皮肉な現象が出来する。結果的には、ベトナムで果たせなかった正義――自己満足の正義――をマンハッタンで果たすことになる。つまり、これは形を変えたベトナム戦争映画なのだ。親に宛てた手紙のなかで、「政府の仕事をしている」とか「素敵な彼女と付き合っている」とか、嘘八百で取り繕っているのが印象的で、理想と現実の間でもがきながら狂っていくのが興味深い。

あと、『現代の英雄』の項で書いた通り、現代における英雄とは「無敵の人」であることが本作でも証明された。無敵の人、すなわち、失うものが何もない人。それが現代の英雄としてメディアを騒がせる。

*1:ちなみに、『ブラックホーク・ダウン』【Amazon】を観たときも同じように思った。

アーナルデュル・インドリダソン『湿地』(2000)

★★

アイスランド南東部のレイキャヴィク。北の湿地にあるアパートから老人の死体が発見された。現場には犯人が書いたと思しき謎のメモが残されている。さらに犯行は杜撰で、現場には犯人のものと思われる指紋が残っていた。犯罪捜査官のエーレンデュルが事件を捜査する。

ある日、温かいミートスープをすすりながら、エーレンデュルはもし女の子だったら名前を選ばせてくれないかとエヴァ=リンドに訊いた。いっしょに名前を選んでほしいと頼むつもりだった、とエヴァ=リンドは言った。

「それで、なんという名前にしたいの?」と訊く。

エーレンデュルはスープから顔を上げて娘を見た。

「ウイドル。ウイドルという名前がいいね」(p.326)

単行本で読んだ。引用もそこから。

アイスランドのミステリ小説とはどんなものだろう? と思って手をとったのだけど、その国ならではの要素がだいぶ省略されていて拍子抜けだった。せっかくマイナーな国が舞台なのに、そこらの欧米ミステリと変わらない脱臭された作品になっている。作中に出てくる名詞を変えたら、アメリカのミステリと言っても通じるのではなかろうか。これはつまり、どの世界も犯罪や家庭問題は似たりよったりであり、だからこそ細部が重要なのだろう。本作はそれを省略していて残念だった。

作中にしばしば「アイスランドでは~」とか「アイスランド人は~」とか、多様性を否定するような記述が出てくる。調べたらアイスランドの人口は36万人しかいないようで、なるほどこれは国単位で一括りにできると納得した。36万人って日本の地方都市よりも人口が少ない。和歌山市民はとか、奈良市民はとか、そういうレベルである。本作には稀な遺伝病が出てくるけれど、これくらいの人口だと想像以上に範囲が絞られる。日本よりも個人の特定が容易であり、本作の書きぶりも相応のものだと思った。

ぱっと見で分かるアイスランドの固有性が、人口と名前くらいしかないのは寂しいところだ。人口については前述の通りだけど、名前についてはこれがかなり独特で、一読して性別が分からないのは盲点だった。たとえば、エーリンボルクが女性の名前だったのには驚いたし、マリオン・ブルームに至っては作中人物ですら性別を判別できないでいる。こういう不便さをどう捉えるかは人それぞれだろう。僕はマイナー文学を読む醍醐味だと割り切った。

ミステリ小説としてはプロットに捻りがなく、現代ミステリの水準に達していないと思う。ただ、被害者がどうしようもない悪党で、過去をほじくることで哀しみをすくい取る構造になっているのは特筆すべきだ。叙情的な要素がそれなりにあって、ある種の読者を引きつけるようにはなっている。