海外文学読書録

書評と感想

村田沙耶香『丸の内魔法少女ミラクリーナ』(2020)

★★★★

短編集。「丸の内魔法少女ラクリーナ」、「秘密の花園」、「無性教室」、「変容」の4編。

結局、正義なんてどこにもないんだ、というのがミラクリーナの出した結論だった。大人になるということは、正義なんてどこにもないと気付いていくことなのかもしれない。そういう意味で、私はやっと大人になったのかもしれない。(p.37)

以下、各短編について。

「丸の内魔法少女ラクリーナ」。茅ヶ崎リナは小学3年生のとき、魔法少女ラクリーナに変身し、友達のレイコと共に悪の組織と戦っていた。そんなリナも今では36歳会社員。ごっこ遊びとして魔法少女の設定と付き合っている。あるとき、レイコが彼氏にモラハラをされ、それがきっかけで彼氏も魔法少女になるのだった。魔法少女になった彼氏が行っている正義は、ストレス解消に過ぎないと喝破されるのだけど、しかしその点で言えばリナと同じだ。リナも会社勤めの現実から逃れるための妄想だと自認している。とはいえ、同じ歪んだ妄想でも、両者は他人に迷惑をかけているか否かが決定的に違う。彼氏は一線を超えた活動をしているのだった。ストレス解消のために正義を押しつける、というのはプリキュアの題材になりそう。さらに、終盤でイノセンスの問題が浮上してきて面白かった。

秘密の花園」。大学生の千佳が、同じゼミの早川くんを自宅に監禁する。早川くんは彼女持ちで浮気性で最低の人間性だった。千佳は小学生の頃から早川くんに好意を抱いている。初恋をいかにして終わらせるのか、という話だけど、よくよく考えたら早川くんが可哀想で同情してしまった。だって、千佳の一方的な思いを解消するための生贄になっているのだから。それにしても、「早川くんは私の少女漫画であり、エロ本でもあった。ときめきへの憧れと、清潔な性欲が、早川くんを相手にだけ、膨らんでいった。」というフレーズはエモい。初恋とはすべてそういうものなのだろう。

「無性教室」。ユートが通う高校では「性別」が禁止されており、生徒は規定の制服を着て性別を隠していた。ある日、ユートは同級生のユキに誘われてその家に遊びに行く。そこでユキにキスをされる。ユキによると、近いうちに大人の社会でも性別が廃止されるという。大抵の人は性別に囚われた恋愛をしていて、たとえばヘテロセクシュアルだったら異性を恋愛対象にしている。たとえ同性に惹かれたとしても、それを振り払って異性に好意を向ける。なぜなら、それが正しいとされているからだ。しかし本作を読むと、精神の恋愛と身体の恋愛は別物なのかもしれない。男も女もない中性の世界に放り込まれたらどうなるのか? 個人的には、恋愛と性欲は不可分だと思っているから、ひと目見て性欲を喚起させるかを重視している。性欲を感じない相手とは恋愛しない。ともあれ、この問題はなかなか難しい。

「変容」。中年主婦の真琴がファミレスでパートをすることに。客からたびたび理不尽なクレームが入るも、同僚の若者たちは冷静に対応している。それに感心する真琴だったが、同僚の態度に不審な部分が。どうやら最近、若者から「怒り」の感情が消えつつあるらしい。「今どきの若いものは」式の価値観の相違を描いた小説かと思いきや、終盤で一捻りあった。確かに、すべてが人為的にデザインされたものだとしたらぞっとする……。社会学者のジグムント・バウマンによると、「世の中が変わった」という感覚は近代になってから加速度的に増したそうで*1、僕もまさにそれを体験している。変化に合わせるのはなかなかつらい。

*1:『リキッド・モダニティ』【Amazon】と『リキッド・モダニティを読みとく』【Amazon】を参照のこと。

ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演戯』(1943)

★★★

演戯名人ヨーゼフ・クネヒトの伝記。カスターリエンでは学芸が重んじられており、少年クネヒトは音楽名人の引き立てもあって、その道の学校に入学する。ガラス玉演戯の修行を積んだクネヒトは、学校を卒業後、研究や在外使節の仕事をこなすのだった。やがてクネヒトは演戯名人に就任する。ところが……。

「ああ、ものごとがわかるようになればいいんですが!」とクネヒトは叫んだ。「何か信じられるような教えがあればいいんですが! 何もかもが互いに矛盾し、互いにかけちがい、どこにも確実さがありません。すべてがこうも解釈できれば、また逆にも解釈できます。世界史全体を発展として、進歩として説明することもでき、同様に世界史の中に衰退と不合理だけを見ることもできます。いったい、真理はないのでしょうか。真の価値ある教えはないのでしょうか」(pp.382-383)

新潮世界文学全集(高橋健二訳)で読んだ。引用もそこから。

ガラス玉演戯とは音楽の延長上にある総合芸術のようで、そのルーツは「遊び」にあるようだ。そして、舞台であるカスターリエンは芸術の理想郷みたいな土地で、独自の階級制度を形成している。芸術の担い手は貴族階級として扱われ、国民が彼らに衣食を供給している。この構図は将棋や囲碁の世界に似ていると思った。

大人になってからする「遊び」は、子供がするような純粋な遊びではなくなっているような気がする。というのも、大人は「遊び」に対して名人を頂点とした階級制度を作り、それを維持する組織を作り、権威を持たせて経済活動に組み込んでいく。そして、「遊び」をすることで報酬を得る集団、すなわちプロの世界が形成される。言うまでもなく、「遊び」のプロにとって「遊び」は純粋な「遊び」ではない。生活を賭けた戦いである。大衆に「遊び」を見せることで富と名声を獲得し、社会的地位を高めていく。名人にもなると、その道のトップとして崇拝の対象になる。「遊び」が文化になることで、余計なものがつきまとうのだ。この構造が健全かどうかはともかく、人間は組織を作ること、秩序を作ることが大好きなようで、「遊び」でさえも階級制度の対象にしてしまう。この意識は人間が抱えるどうしようもない性である。

どんな芸術にも堕落がある、というのは実感として納得できるところがあって、これは芸術家が集まって互助会みたいな組織を作ることに原因があるのだろう。日本の文壇なんかその好例である。文壇においては、仲間同士がお互いの作品を褒め合って商品価値を高めようと躍起になっている。売上のため、生活のために信念を曲げ、駄サイクルを繰り広げている。そこには批評家や書評家といった蝿も寄ってきて、壮大な八百長相撲が行われているのだ。文壇においては作品の良し悪しなど問題にならず、作者が自分と仲良しであるかが重視される。仲良しが書いた作品だったら、たとえ駄作でも褒めちぎることになっている。従って、一般読者はそういった人間関係を把握しなければならない。たまに貶し書評が出たら、「この評者は作者と仲が悪いのだろう」と察しなければならない。このように日本の文壇には腐敗した精神が染みついており、だから読者離れが深刻になっている。

主人公のヨーゼフ・クネヒトは、名人として斯界の頂点に立ちながらも、それを捨てて踏み越える選択をした。階段を一段一段進んでいき、極めた後に目覚め、新たな始まりの地に立った。引退してゼロからのスタート。正直、僕みたいな俗物にはこういう人生は送れないけれど、偉大な作家が思い描いた理想像として、心の片隅に置いておこうと思った。

読書についてのアンケート2020

どうも世間では、古典文学を熱心に読む層と、現代文学を熱心に読む層とで別れているようだ。最近入ったDiscordのコミュニティでは前者が多く、僕がフォローしている読書メーターのアカウントでは後者が多い。

そこで気になった。このブログの読者はどちら派なのだろう? 僕は自分のことをオールラウンダーだと思っていて、古典文学と現代文学をバランスよく読んでいるつもりだ。本選びはそのときの気分ではあるけれど、結果的には両者を満遍なく読んでいる。見方によれば、中途半端であると言えよう。

それはともかく、みなさんは古典文学と現代文学、どちらを中心に読んでいるのか? 以下にアンケートを設置したので、回答して頂けるとありがたい。 

あなたは古典文学と現代文学、どちらを中心に読んでますか?
古典文学
両方をバランスよく
 
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ヘルマン・ヘッセ『知と愛』(1930)

★★★

マリアブロン修道院では、年若いナルチスが助教師として働いていた。そこへ良家の子弟ゴルトムントが預けられる。知の人ナルチスと愛の人ゴルトムントは、友情で結ばれるのだった。やがてゴルトムントは修道院を抜け出し、放浪生活をしながら数々の女と情事を重ねる。放浪の果てにゴルトムントは、木彫りの親方ニクラウスに弟子入りする。

ゴルトムント「あなたは詭弁家です、ナルチス! こんな道を進んだのでは、ぼくたちは近づくことはできません」

ナルチス「どんな道をとっても近づきはしない」

ゴルトムント「そんなふうに言わないでください!」

ナルチス「ぼくは真剣なのだ。太陽と月とが、海と陸とが、近づき合うことのないように、互いに近づき合わないのが、われわれに課せられたことだ。われわれふたりは、ねえ、君、太陽と月、海と陸なのだ。われわれの目標は、互いに溶け合うことではなくて、互いに認識し合い、相手の中に、その人のあるところのもの、つまり相手の反対物と補足とを見、それを尊び合う修練をすることにあるのだ」(pp.127-128)

新潮世界文学全集(高橋健二訳)で読んだ。引用もそこから。

本作には人生論と芸術論、そしていくばくかの神学論が含まれている。ナルチスは学問を始めとする「知」を代表しているが、その「知」はあくまでキリスト教世界を支える「知」である。西洋科学と言い換えることもできよう。一方、「愛」を代表するゴルトムントは、母親の不在によるマザーコンプレックスを心に抱えており、それゆえに女性たちとの情事に依存している。彼は芸術の道に入り、才能を親方に認められるも、それに一生を捧げることに疑問を抱く。そして、ゴルトムントが再放浪の果てにナルチスと再会したとき、芸術を通して自身のマザーコンプレックスが昇華されるのだった。

本作はこのような構築的な内容になっていて、人生とは何か、芸術とは何か、そういう人間の存在意義を浮かび上がらせている。特徴的なのが、清濁併せ呑んでいるところだ。人間は堕落がないと悟りを開くことができないとし、不倫にせよ殺人にせよ、罪を犯した先に光があるとしている。この辺、仏教を扱った『シッダールタ』と一脈相通ずる部分があって興味深い。堕落についてはおそらくヘッセの持論なのだろう。

僕はこう見えて芸術の愛好家なので、本作で言及された芸術論には感銘を受けた。要約すると、すべての芸術の根本には死滅に対する恐怖が横たわっており、芸術の本質は無常なものを永遠化することにあるという。確かにこれは思い当たる節があって、我々が古代ギリシャの芸術に触れられるのも、永遠化の試みゆえだろう。ほとんどは時の淘汰によって失われたとはいえ、残るべきものはしっかり残っている。翻って視点を現代に戻すと、果たして今の芸術は後世まで残るのかという疑問がある。たとえば、千年後に村上春樹は残っているだろうか? おそらく彼ほどの作家でも忘れ去られているだろう。そう考えると、有象無象の芸術家たちは永遠化する可能性がもっと低いわけで、何のために創作しているのか分からなくなる。

それにしても、放浪の道を選んだゴルトムントは、自由に対して不安を感じなかったのだろうか。確かに自由を得たことで行動の制約はなくなったけれど、その反面、衣食住は安定しなくなった。身の安全も保障されなくなった。我々は労働という不自由を受け入れることで、衣食住の安定、ひいては身の安全を手に入れている。つまり、自由と引き換えに生活の安定を手に入れている。そういう構造があるので、ゴルトムントの自由にはどこか割り切れないものを感じた。

序盤でナルチスが、「学問の本質は差異の確認」と断言していたのは刺さった。社会学なんてもろにそうだ。僕はある事情から社会学を勉強しようと思っていたので、折に触れてこの言葉に立ち返ってみたい。自分がやっていることは差異の確認であることを自覚したい。この差異が、生きづらさの原因であることを暴きたい。

ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』(1922)

★★★★

バラモンの子シッダールタとその友人ゴーヴィンダが、現在の生活を捨てて沙門の道に入る。3年後、2人は涅槃に達したというゴータマの噂を聞く。バラモンや王公も彼の弟子になりつつあるとか。2人はゴータマに会いに行く。そして、ゴータマの教えを聞いたゴーヴィンダはその弟子となり、一方のシッダールタはゴータマと問答した後、己の道を進む。

仏陀は自分から奪った、とシッダールタは考えた。自分から奪ったが、それ以上のものを自分に与えてくれた。仏陀は自分から友を奪った。友は自分を信じていたが、今は仏陀を信じている。友は自分の影であったが、今はゴータマの影になっている。だが、仏陀は自分にシッダールタを、自分自身を与えてくれた。(p.29)

新潮世界文学全集(高橋健二訳)で読んだ。引用もそこから。

僕みたいな俗物にとってはありがたいお経のような小説で、正直ちゃんと理解できたのかも怪しいのだけど、読後は悟りを開いたような気分になれたので、それなりに堪能できたとは思う。

敬虔な仏教徒が「苦悩から解脱したい」と思っていることについてはまあ納得できる。仏教に限らず、たいていのは宗教はそういうものだろう。現し世は地獄という考え方。とはいえ、僕は死後の世界も輪廻転生も信じてないから、人生に対する態度は正反対だ。彼らと違って断食や苦行に意味を見出だせない。だから本作についても、最初は自分と違う世界の話だと思っていた。もっと言えば、信心深い人のために書かれたものだと思っていた。けれども、読んでいくうちにそんな偏見も一変、無宗教の僕にも関わりがある、普遍的な内容であることを理解した。

シッダールタは自我の意味と本質を学び、それから逃れたいと思っていた。自分がシッダールタであることについて知りたいと願っていた。これはいわゆる「自分探し」というやつだけど、青年期にこの意識を持つことは、より良い人生を送るうえで必要不可欠なのだろう。人生とは試行錯誤と回り道でできていて、ショートカットはできない。出会う人すべてが自分の師であり、良いことも悪いことも含めたすべての経験が糧になる。本作は短いながらも射程が壮大で、人生について大きな学びがあった。目標を持つよりは持たないほうが自由でいい。求道者は目標に取り憑かれているがゆえに、視野が狭くなって何ものも見出だせなくなる。ゴータマの弟子になったゴーヴィンダは、最短ルートを歩んでいるようでかえって遠回りをしていた。おたくの僕は「文学を極める」という目標を掲げて今までひた走ってきたけれど、確かにそのせいで大切なものを見逃していたと思う。文学を極めるには、文学以外のすべての経験が重要になる。目標を設定することで目標が達成できなくなるのは本末転倒でしかないわけで、本作の視点は僕にとってコペルニクス的転回だった。

年長者は自身の過ちや後悔から若者にアドバイスしがちだけど、そういうお節介は最小限にとどめて、どんどん回り道をさせたほうがいいようだ。頭でっかちのお利口さんにさせては駄目。じゃないと発見する喜びがなくなってしまう。